ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

「できる先生ができない」問題

意味のわかりにくいタイトルをつけてしまいました…常ではありますが。いつも以上に話がまとまりませんので、兼好ばりに徒然してみたいと思います。

支援系を10年以上やっていて、教育で大事だなぁと思ってきたことは「こどものできない背景をアセスメントすること」でした。

字が巧く書けないのは持ち方?筆圧?手と眼の協応?空間認知?…などと探っていかないと課題解決のための学習指導はできない…はずなのですが、一斉指導では置いておかれます。「ヒタスラ練習させるのが上達の道」と思っている人もいます。そして習得できなくても一定時間がすぎると授業は次の課題に移り、その後は度々思い出したように未修部分を指摘されて特別練習が課せられたりすることもあります。

なんか自分自身もやってしまっていた事なのでバツが悪いのですけれど。

教えているこどもが「できない」状況のときに丁寧に教えてくれる先生はいます。でも定着しなかったりすることも多いです。個別に対応してくれる担任もいます。でもそうそう時間が取れるわけではありません。なので、アセスメントをちゃんとやって効率的に指導するのが良いと思うのですけれど。

子どものせいにする担任が一定数います。「授業を聞いていないから分かるわけがない」のは言い分としては筋が通っているのですけれど、子どもが聞くように授業を工夫するのが仕事だよなぁと思ってしまいます。巧く行かないことも多いですけど、めげずに試行錯誤するべきだと思います。働かせ方改革で色々削っても構わないけれど、授業は最後まで教師の責任で行う仕事になるでしょう?そこを研鑽しないなら教師って何?

以前から教員同士の話を聞いていて感じてたのは「できない」がわかってないんじゃないか?と云うことです。

基本、学校の先生なんて云うのは自分も含めて採用試験に通ってきた人たちばかりで、高卒程度の一般教養や教職に関わる専門知識を一定レベルで理解するか覚えるかすることができた人たちです。苦手な勉強はあっても、「採用試験レベルで何とかなってきた人たち」の集団なわけです。

本来「できる先生」というならば「子どものできない」が理解できて指導ができて教育のプロ、となるんじゃないかと思うのですが、あまりそこまでは視点が行ってない感じがします。「誤答分析」という言葉を随分前にセミナーで聞いて、とても良い言葉だと思い周囲に伝えていましたけど、あまり反応は良くなかったなぁ。

 

自分は体育が苦手でした。幼少の頃からトトロ体型だったもので…でもこの場合できない背景は理解しやすく、他に健康面で理由がなければ対策も立てられます。

でも、先程の筆記能力や度々書いているリコーダーなどで背景を考えて指導してくれる先生は少数派です。確かに背景を探りにくい面もありますけど。

アセスメントを自分で行ったり依頼したりした上で適切な支援につなぐ先生は更に少なくなります。

多数派である「練習すればうまくなる」「できないのは練習が足りないから」とこどもを励ます先生には勿論悪気なんかありません。しかも嘘は言ってません。

でも各単元には一定時間での評価タイムがあって、限られた時間内でこどもが納得できる成果が出るのか?難しいでしょ?ということです。そこまでを想定して更なる支援を考えているのでしたら良いのですが。

こういう場面での「頑張ればできる」はできた人たちからの上から目線の言葉です。こどもが頑張ればできる「環境」を整えているなら問題ないですけれど、前世紀の精神論全開でこのフレーズを使ってほしくないです。使うなら「頑張ればできる」根拠を持って使っていただきたい。

 

単純に「できる」「できない」だけで授業を構成するなら「できない」を主軸に授業を構成するほうが自分好みではあります。ずっと保護者には「上手な失敗」を推奨してきましたから。あとは、その子にとっての優先順位って考えたほうが良いと思います。苦手が多い場合に、どの習得が優先されるべきか? だいたい習得できちゃった先生方には必要のなかった選択ですが、個々に合わせていただかないと…

自分のマナビ経験で指導支援している教師が多いのはある意味仕方がないのかもしれませんが、自分とは違うマナビの感覚を理解することができない先生が多いんじゃないかなぁ。その上自分のやり方が正しいと思う教師は一定数いるし、アプローチの仕方を変えたがらない教師も多いし…マナビの多様化を進めるなら、ココらを打破しないと先は暗いと思います。