ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

怒る 叱る 指導する 支援する

指導するの中に叱るが入るイメージなのかなぁ?こうして並べると「怒る」が仲間はずれになっていると感じるのは私だけかなぁ?

4ヶ月ぶりに学校でお手伝いしてきました。お腹をポンポンされるのは構わないのですが、お腹をつねられて、顔を叩かれ、眼鏡をほっぽられ、引っかかれて、肘鉄を食らって・・・難しいお子さんは難しい・・・などと仕方の無い台詞が出てしまいます。ポンと入って最近の指導方針を知らないとされるがままになってしまいます。動きを封じることができなかったので、次に行く時までには上半身の筋力アップを図ろうなどと帰りに思ったりもしました。

それとは別の場面でしたが、危険行為があったので、大きな声を出して注意して行為を叱る、をやりました。かなり賑やかだったので、大きな声はまぁ仕方ないかなぁ・・・別に大きな声で無くても静かになったのかなぁ?う~ん。それより「叱る」が威圧的すぎたかなぁ。しゃがんで目線を合わせたかったんだけれども、腰が痛くて立ったまま、見下ろしてやってしまいました。椅子を引き寄せて座るって手段もあったなぁ。話自体は淡々と進めたのでまぁまぁ?視覚支援が無かったのはOUT。

 

ただ注意するのでは無く、行動改善につながる指導にしなきゃいけないので、色々試してみたいし、色々検討してみたいんですけれど・・・こういう類いの校内研究って発表している学校無いのかなぁ?まぁね、このテーマだと研究発表で授業見せても仕方ないし、かといって、都合良く指導場面が起きる訳でもないし。

How toものの教育情報誌には、正解が書いてあると信じている人が多いのですけれど、そこが落とし穴なんじゃ無いかしらん?とかも思っている訳です。背景部分を理解せずにカタチだけを実践する「形式的支援法」が諸悪の根源かなぁと。

そりゃあね、学校スタンダードが全て悪いって事も無くて、例えば教室前面に華美な掲示をしないとか、良いと思いますよ。でも、前面壁に華美な掲示はして無くても、黒板には・・・マグネットペタペタ、先生のメモが書いてある、貼りっぱなしの提示物・・・、そして黒板脇の教師机の上には・・・ノートや提出物が山盛り、落とし物が山盛り、何かキャラクターグッズ的な教材が置いてある・・・、なんて状況だと、いくら前面壁の掲示が無くても意味ないじゃん。何のための掲示制限なのでしょう?

 

How toものの情報誌には怒るのはダメで、叱るのは効果が薄くて、分かるように説明をするのが正しいと書いてあることが多いのですけれど、状況や個々によって変えなくて良いのでしょうかね?

かまってちゃんが人に打撃を与えるのを止めたい、なんてすぐには効果は出ない事が多くて、その間に被害が周囲に及びます。教室環境整備や保護者への協力を行っていくことになるんですけど、その内容だって、特性によって変わるでしょう。

本人が分からないでやっていることなら、まずはHow toものの様に実践するのは基本かなぁと思うんですけれど、何度も繰り返されているとか、遊びになっちゃっているとか、危険がある場合とか・・・アセスメントの結果で変わらなきゃおかしい。

周囲の子に鉛筆を向ける、何て行為があったのですけれど、その場である程度の理解が得られるまで説明をする必要はあったんだろうな、と思います。学校はman-to-manではないので、これを行うのはなかなか難しいです。

怒るor叱るがトリアエズ状況を停める効果が高い訳で、社会や家庭でも多用されているのだと思います。その行為に怒っている、というメッセージが伝わるようにできれば、行為が止まる効果は期待できる訳ですけれど、怒りながらメッセージ重視の語りをするのは難しいです。後で子どもに話を聞くと「怒られた理由が分からない」というのはよくあるパターンです。

 

行動改善ってどの程度の時間を想定しているのでしょう?そこも個人差ですって答えられたことはあります。そりゃそうなんですけどね。

Aという方法で試したけど、効果が出なかったからBで。というのは普通に考えられることで、だからこそ指導支援に取り組む人やそのコンサルをする人は、色々な手段を持っているか考え出すかしてもらわないとイケないんじゃないかなぁ。