久しぶりのオンライン勉強会でした。隠居して5年が経ち、学校とも距離が出ているので、今の様子を知る良い機会になっています。何より過去の自分の反省になりますし、新たな視点で見直すこともできて面白く参加させてもらっています。
今日の話の中で出てきた「やらなくても良い仕事」に関するやりとりが長年の引っ掛かりを解いてくれた感じがしました。
教員の仕事にもある意味仕事マニュアルのようなものが存在しています。教科書の指導書なんか最たるものですし、職員会議などで事務仕事や行事運営について大なり小なりの説明はあります。
御上の云った通りに仕事をしていれば、それだけできちんと労働しているわけですけれど、それ以上の?それ以外の?仕事に対する評価って昔から不当になることが多い感じがしてました。
足並みをそろえたがる学年主任とか先輩教師が結構いたなぁ。幸いなことにそういう方と同じチームになることは少なかったのですが、違うチームの先輩にも言われてましたからね。表立って反発する性格ではなかったので、こそこそとやれることをやっていたこともありましたが…。とにかく同じように同じように…って日教組の組合員のくせに自民党のようなことを言うのです。こんなんで子どもの多様性に対応できるわけがない…と今振り返って思ったりするのですけれどね。
教科書オンリーで授業を進めても怒られることはないのですけれど、「わかりやすい授業」とか「この学級の実情に合わせた教材」とか考えるのが教師だと思うんですけど、もはや古い考えなんでしょうかね。
昨今、教員のブラック職問題で労働時間が問題になっていますが、時間をかけたい教師はかければいいじゃん、と思うのです。単純に労働時間を切るのではなくて、そういう教員が潰れないようなシステムが学校には必要なんじゃないかなぁ。
それにはカリキュラムの減量が…と同じ主張が繰り返されるのですけれど。
若い頃に残業していたら「早く帰りなさい。仕事が遅いだけじゃないの?全く。遅くまで仕事しているのは偉いんじゃないのよ!」と先輩教師に言われたことがあります。まぁ確かに仕事も遅かったですけれど、やりたいことがたくさんあるから残る時間が多くなるって感じでしたので放っておいてほしかったなぁ。
後から聞いた話では、遅くまで残っている教師の評価が保護者の中で高かったから発言につながったとか。嫌な話です。こういう経験を経て合わせることが嫌いな人格が形作られたのではないだろーか?
やらなくてもよい仕事、と聞いて、そういうことばかりやっていたような印象です。でもそのくらいのゆとりがないと人間育成なんてできないんじゃないかしらん?世紀末にでさえそう感じていたので、今はもっと子どもにも教員にもゆとりが必要だと思うんですけど、どうなんだろう?