今月の10日に入学式がありまして、今週からいろいろ教えてもらっています。ずっと指導する側に立っていたので体験としては新鮮なのですが、指導される側に立ってみると改めて考えさせられることや在職中には気づけなかったこともあります。
「わからない」とか「できない」状態で「教えてもらう」というのはこういうことなのだと実感しています。でも教師目線が入るんですねぇ。まだ回数は少ないのですが、ここまで担当してくださった先生方は上手な指導をされています。上から目線になっていて嫌ですね~。
「この位分かっているだろ?」を感じさせない先生が教え方上手と一致するかは分かりませんけれど、少なくとも聴きやすい先生ではあるかなぁ。話が入りやすいです。
「わからないを分かっていない先生は多い」と昔から言ってますが、これは意識していないとなかなか自分で気づけないんじゃないでしょうかねぇ?だって既知のことなのですもの。自分にとっては常識なのです。どこまで被指導者の目線に近づけるかって・・・ほら、「子どもの目線に~」という古くからのフレーズがあるじゃないですか。あれですね。
やってみると実感しますが、物理的に子ども目線にすると気づけることは結構あります。視点や思考まで近づけたら色々気づけるはずですね。多様性重視の学校だったら、それをひとりひとり個々の目線を考えなきゃイケないですね?政府や政治家はそこまで考えて教育の多様性を口にして欲しいです。
ツラツラ考えると先生が学校という場で毎年やっている「当たり前のこと」は、子どもの当たり前と一致しているのでしょうか?そう云うことに丁寧な先生って昔からいましたが、やはり少数派という印象です。勿論自分は棚上げしていますよ?丁寧とか継続って苦手分野ですから。でも自分が教えられる側に立つと、そこが一番気になります。
実習中に担当で無い先生から注意を受けたのですが、これがまぁ過去の自分を深く反省する材料になりました。
注意の声かけ方法になりますかね。具体的な行動について触れることなく理由のみ伝えてくるので、正しい行動に結びつかずに同じ注意を2度受けました。理解はしていないけれど動くと注意を受けるのは予測できたので「動かない」を選択しました。後刻担当の先生から丁寧な説明があってようやくつながりの理解はできました。
小学校現場では注意する時に具体的行動を指示する形が多いです。「静かにしなさい」とか「手を止める」とか。そこは大きく違うのですけれど・・・指示を理解できない自分が悪いんだと思う子もいるでしょうねぇ・・・今回の私は指示の出し方が悪いと思っていましたけれど。
自分が反省すべきだと思ったのは注意した後の表情や動作です。そこに留意していた記憶が1つもありません。
表情ですが、注意された後、指導者の顔が恐く見えます。険しいと言いますか・・・分析的に観察すると普通の表情をしているのですが、多分そこに相互に感情をプラスするのでそう見えるのかなぁ? とにかく注意した後、子どもからどんな風に見えているかなんて考えたことはなかったですし、恐い先生類だったので、余計な負担をかけていたのだろうと思います。
そういう場面での動作も深く考えたことはなかったですね。注意された後、二度見されることがあんなに嫌なんて考えたことなかったなぁ。指導者立場は分かりますよ?「注意される行動をするヤツなんだから、よく見てないとねっ」ということでしょう。でも元気のよい人たちが「なにガンつけてんだよぉ」と言っちゃう気持ちもすこ~し分かったように思います。
児童観察のイロハを教えてくださった先輩からは「観察していることを悟られないように」と言われましたが、なかなか難しかっ・・・今も難しいです。