ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

不揃い

年明け初回のお手伝い。一月ぶりの子どもの近くでした。教室から離れていると、思い出すきっかけが無いと言いますか、思いつかないと言いますか・・・。やはり支援を考えるなら目の前で子どもが動いている状態の方が色々浮かんでくるようです。今日も子どもを見ながら支援級担当初年度の事なんかを色々思い出していました。20世紀だったので、交流に対して定型学級担任の理解がなく、市内の支援級先輩担当によく愚痴を聞いてもらいました。

 

在職中は支援級と定型級を行ったり来たりしていたので、どっちの言い分も分かるつもりなんですけれど、交流ってナカナカ巧く行っている話を聞かないなぁと。学校としての力の入れ具合の差や支援教育や交流教育についての理解の差とかが背景になっているようです。インクルーシブ教育って結構前から言われてきていて、何年か前に県は「一定の成果があった」と言ってましたが、当時通級を担当していた私には、「前よりマシにはなったけど問題山積み」としか思えませんでした。定型級が交流について理解が浅いし、深まり様子もない。定型級在籍の特性を持つ子の支援も理解できない。これでインクルーシブ?

通級担当になってから感じたのは、「支援への姿勢は支援級担任とか定型級担任とか関係ない」と云うことでした。支援級担当だから、あるいは支援級担当だったから理解があるとは限らない。経験年数が高いから理解があるとは限らない。それどころか、大雑把に言ってベテラン教師の方が支援に理解が浅かったりします。

ここ数年で自分の周りを振り返っても、全体指導と個別指導のバランスが取れている先生はベテランでも若手でも結構いる印象です。じゃあ、特性に合わせて指導しているかというとそうでもなくて、20世紀と変わらない指導が多いかな?と。個別指導なんだけど、同じ方法でひたすら練習とか?アップデートができていない状態で教師している人が多いんじゃないかな?と思います。

もちろん意識している教員も周りにいっぱいいて、ちょっとセミナーを勧めて以来毎年通っている人や頻りに質問してくる人、研究会に参加して学んでいる人等々・・・意欲高いなぁ。でも忙しくて学ぶ時間の無いと言う人もいます。ブラックな面は行政に何とかして欲しいですねぇ。

 

支援意識の低さを考えた時に、支援意識の一番邪魔になるのが「揃える」だと思います。一斉指導で同一行動をどこまで求めているかで違ってくると思うんです。20世紀の教室と同じレベルの同一行動を求めるのは難しいんじゃ無いかと思います。

昔、「不揃いの林檎たち」というドラマがありましたが、この「不揃い」を認めましょう的な考えは金八先生の頃から多分主張されては来てるのですが、現実には枠にはめる社会であり教室だったと思います。教室には「みんな違ってみんなイイ」なんて掲示してあったのにね・・・まぁ人のことばかり言えないのですけれどね(T_T)

夫婦別姓LGBTインクルージョン等々、今こそ不揃いの時代だよなぁ、と思います。色々な違いを認め合うって口では簡単なのだけれど、具体的な指導が難しいのは分かります。でもまず教室で担任が行動で示してくれないとね。学び方の選択もできない、交流さえ理解できない状態で、多様化する社会の教員なんてさぁ・・・