ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

死の伝え方

リエゾン」の最終話を見て、あらためて子どもへの「死」の伝え方って難しいなと思いました。

作中では、ASDの女児が母親の死を理解する経過を描いています。病院長もASDという設定で幼少期に同様の経験をしているので、死を伝える場面が2回出て来ます。伝える側の俳優さんが風吹ジュンさんと三浦貴大さんだったのですが、その難しさが伝わってきました。特に尺の長かった三浦さんのためらう感じや思い切る感じが現実的な感じがしました。専門家じゃないから分からないのですけど、台詞に混じる息が個人的には良かったなぁなんて。

 

自分自身の記憶に残る一番古い葬式って祖父か同級生なのですが、どちらだったのだろう?7歳くらいだったと思うんですけど、その場で悲しいと思った記憶はあまりないです。

ドラマの中でASDの子の感情について語られる場面がありました。祖父の葬式の時に大人たちがみんな泣く中で、火葬場の煙を見つめていた時に私は一体何を考えていたのでしょう?景色は断片的に覚えていますが気持ちは思い出せません。ただ、泣いた記憶はないです。だいぶ経って学生の頃に一人で墓参して、じわじわと悲しくなったのは覚えています。でもあれは悲しかったのかなぁ?寂しかったのかなぁ?

その祖父の3回忌だったと思うのですが、葬儀での木魚の音に反応して従兄と一緒に笑いを抑えるのに苦労したことがありました。少し前に見たお坊さんのコントが思い出されてしまったのでした。小学生なんてそんなものかなぁ、と思うのですが、後々、自分の特性の強さが分かると、一般的な子どもの反応じゃ無かったかも知れないなぁとも思う訳で・・・

 

ドラマの中では「天国に行った」「おばけになった」「星になった」などという伝え方を否定して、「いなくなった」「二度と会えない」事を伝えています。

子どもの頃に「天国に行った」「極楽へ行った」「空に昇った」「あの世へ行った」などは言われました。別世界に行って、現世の我々を見ているという説明です。

当時の環境ですが、神仏習合系の家で、何故かカトリックの幼稚園に通わされたので、神教仏教基督教の何でもあり状態でした。思い込みやすさも手伝って、「信仰心は薄いけれど地獄は恐い」という状態かなぁ?悪いことをしている子は地獄行きなので、自殺なんかできないのですけれど・・・「別世界がある」という概念形成は、思春期の自殺願望につながったと思います。当時としては多分とても苦しかったのですが、今考えると、「次の世界に逃避する」ってまだ余裕があるのかなぁと。「次がなくても今を終わりにしたい」と思ってしまうことだってあるのに・・・。まぁ、宗教観は人それぞれなので否定はできないモノですが、「別世界がある」というのが全ての人にとって現世を幸せに生きる事につながるワケではないと思うのです。

 

まぁ時代や環境もあるので、難しいかも知れませんが、宗教観無しで伝えてくれていたら、また違った価値観が育ったかも知れないと思います。昔話が豊富で、不思議な話に満ちていたあの時代では無理だったのは分かるのですがね。

今は特性を自覚しつつも分別がそれなりにあるつもりですが、葬儀では悲しいより寂しいかな?しかも、当日より時間が経ってから感じることの方が大きい。いつだったか弟くんが「人生は旅だ」と宣ってから、そういう感情になることが増えた気がします。というより、「悲しい」が分からなくなっているんじゃないか?という不安も。