ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

忘れ物

習字道具を忘れた子に、課題の文字を原稿用紙に繰り返し鉛筆書きさせる。そんな記事が出ていました。賛否で色々な意見が出ているとしていくつか載っていましたが、課題文字を書き取りすることは無意味だというモノが一番目をひきました。

忘れ物のペナルティとして与えた指示なのでしょうか?単に道具が無いからできることをやってもらう指示なのでしょうか?

 

「ペナルティで漢字100字」は20世紀では普通にありました。サキホド見ていた金八先生のドラマの中でも「謝罪文が書けていないので校庭10周」的なノリが出て来ました。どちらも子ども時代に経験した記憶があります。指導する側になってどうだったか、と振り返ると、校庭10周の記憶は無いのですが漢字100字は記憶にあります・・・相変わらず記憶に自信はありませんが。ペナルティで行動改善は難しいと確信したのは21世紀になってからでした。

子どもの頃のペナルティと言えば、叩かれる事が多かったような・・・水を入れたバケツをもって廊下に立っていたのはペナルティの記憶なのかいじめの記憶なのか?高校生の時に職員室で正座というのもありましたけど・・・私は何をやらかしたのでしたっけ?そう云うのに比べると、学習なり体力なりの足しになる?という発想で漢字練習や校庭周回なのでしょうけれど・・・そういう視点では、指示する方は無意味だと思っていないのでしょう。自分はそれ以前にあまり深く考えていない感じだったと思います。何にしてもペナルティにした活動は嫌悪感が刷り込まれるので、どちらもoutでしたね。

 

道具がない事への対応なら、「原稿用紙に鉛筆書き」もまぁ無くは無いかなぁとも思います。道具がないせいで1時間無駄にするくらいなら、と云う流れなのでしょう。

毛筆の授業に限って云えば、「誰かに借りておいで」が多かったかなぁ。忘れ物をしても何とかすればセーフ、という約束にした年が多かったと思います。私も色々やってみたんですけどねぇ、結局それが一番良かったように思うんですよ。何とかするには考えなきゃイケなくて、誰かに借りたり相談するのもコミュ力が必要になります。思考や社会性を大事にしたいと考えるようになったのは、支援教育を勉強して自分の中で必要感が高まったからだと思います。

「絵の具の筆でも良いよ」と言ったことがあって、実際にやった子が何人かいました。絵の具の筆は、毛筆小筆より二回りくらい大きい先細丸筆が1本という子が多かったので、それなりに書けます。平筆では難しいですし、丸筆であっても小さかったり先が丸くなっていると難易度が上がります。味わいのある作品にはなるのですけれどね。調子に乗って絵の具でカラフルな習字作品を書いた子もいました。「書道体験」としての面から考えれば、こう云うのだって別に構わないんじゃないかなぁ?目的が文字を正しく認識するだけなら、別に筆を使わなくても良い訳だし。

あとは普通に借りるパターンでした。他クラスから借りるパターンもありましたが、学級の雰囲気が良かった時には、「終わったら貸してあげるよ」という声が出てきて嬉しかったです。貸してあげる側も2パターンあって、道具だけ貸すのと、席ごと貸すのがありました。「僕の机でやっちゃえば?」とかいう声がいくつか聞かれるような状態だと、忘れ物が悪いことには思えなくなります・・・改善したい気持ちはあったはずですけれど。

 

記事の終わりには、前時代的な学校教育の在り方が問題なんだと閉めています。そりゃその通りだと思います。でも、オオモトが前時代的なんだし。

今日は横浜開港記念日。日本初ではないにしても社会変化のきっかけになったのは間違いなく、そんな日に前時代的って言われるのは・・・夜明けは来るのでしょうかね?坂本さん。