ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

普通って何?失敗って何?と云うドラマの台詞

面白いよ、と言うので『僕の大好きな妻』というドラマを視聴してみました。突然第3話から視たので、ホントの流れは分かりませんが、大体想像できるような感じです。

面白いと言うよりは重いです・・・自分には。何か色々思い出してしまいます。自分の特性についての想い出だったり、子どもの特性に対応できてなかった事だったりするのですけれど、特に親子関係の部分なんか共感的に視てました。

でも発達障害をドラマにできるんだ?という点では凄いし、自分を定型発達だと思い込んでいる方々には多分面白く感じるんだろうなぁ。

「普通って何?」と「失敗って何?」ってあたりはドラマで投げかけてくれてありがとうって感じでしょうか。考えちゃいますね、ホント。発達障害にも色々なタイプがいるので、ドラマでどこまで触れるのか知りませんが、啓発には良いのかも知れないし、日本社会で発達障害が普通になってきたような気もします。ドラマが全てだと思い込む事で悲劇が起こりませんように。

 

メールに注意 セキュリティ意識

ネットではよく見ていた話なんですけどね。ついでに言うなら、子どもには偉そうに指導していた内容なんですけどね。

こんなメールが届いたことがありませんかね。

 「最近お忙しいと聞きましたが、体調崩してないですか?
  心配になってメールしました。」

署名はありません。知っているアドレスではありません。時間があるときに返信するよう促すメールの1時間後くらいに

 「もしかして体調不良とか…。
  心配なので返事だけでももらえませんか?」

 

PCのメールチェックは毎日している訳ではないので、読んだのは時間が経過してからなのですが、読んですぐに「誰だ?」となる訳です。心配は沢山頂いてしまっている状態なので、そこだけでは絞り込めません。学生時代の友人とか?先輩にも後輩にもこういうメールを送ってきそうな方がいるので、さて?

失礼のないように返信して探りを入れると、先方が名前を入れてきました。昔お世話になった○○ですが、××さんですよね?という感じですが、全く心当たりがありません。いや、正確に書くと××さんに心当たりはありますが、ここ何年も接点がない。まぁ間違いでしょうと思い、その旨返しましたが、それにまた返信が届きます。自分が普段すぐに返信するタチではないので、日をまたぐ事は多いのですが、そのアドレスから何通か届いていました。知り合いに、少なくとも私に対してこういう行動を取る方はいらっしゃいませんので、知り合いではないと。まぁ失礼かとは思ったのですが、ここで受信拒否。

さてさて、その後ネットを見ていたら、見覚えのあるアドレスが迷惑メールとして掲載されていました。お~これかぁ。

メールでやり取りして、仲良くなって金をせびる、サイトに誘い込む、という流れのようです。

 

冷静に考えれば、誰が忙しいの?どの口が言うの?という事なんですけれど・・・コロナ前は忙しかったけれど、最近じゃないしね。でも似たような内容のメールを送ってくれる方もいらっしゃるので、知り合いかなぁ、と思うのも無理はない!と開き直ってみる訳ですが。

こういう詐欺メールに引っかからない方法としては、やはり健康維持になるでしょうか?心配されない程度まで健康であれば、ねぇ?

普段やり取りしていて、アドレスが判っている相手には必須ではないでしょうけれど、ご無沙汰している時には署名が重要だなぁ、と思いました。

あと、見知らぬアドレスだったら、ネット検索してみると結構情報が出てくるので、できればメールを開く前にググってみるのが模範的な行動というヤツになるでしょうか。開いちゃうとそれだけで「このメールアドレスは使用されている」と判っちゃうとか。まして返信したりすると(しちゃいましたが)こちらの状況を推測するヒントを与える事になるとか。

こうなってくると、ネットって便利なの?不便なの?不便じゃないけど面倒な感じがするのは何故?

闇夜の鴉

って曲があったような気がします。フォークギターをかき鳴らしながら歌う系だったような印象はあるのですが・・・こんな事をふっと思い出してしまったのは、さっきからカラスが結構鳴いているんです。

夜ってこんなに鳴いていたっけか?最近こんなすごい遅くまで起きている事もなかったので、最近のカラスはこんな感じなんでしょうか?駅前のセキレイが夜更かしさんなのは知ってましたが、カラスかぁ。ちなみに今の時刻は23時です。

でも闇夜のカラスって言葉があるくらいだから昔から夜に鳴いていたんですかねぇ?歌で考えれば、カラスが山に帰るから一緒に帰るんじゃなかったっけか?

何かの前兆とかは嫌だなぁ。そろそろ地震?富士箱根の噴火?まだポータブル電源は買ってないよぉ(>_<)

話し合い活動のサンプル

電車に乗ってないなぁ。タダ券もらっても使わない位に避けてます。車ばかり使うのでラジオを聴いている時間が多くなり、国会中継を聴く機会も増えました。

昔から思ってはいましたが、国会って子どもに聴かせるのはどうかなぁと。遠足や社会見学で国会へ行く事もありました。地元の国会議員さんがお話ししてくれたり、滅多には入れない場所を解説付きで見せてくれたりするので、学習にはなります。でも、議事進行の様子は見せたくなかったし見せなかったなぁ。まぁ国会って討論というより発表会なんでしょうけれど。

大きいのはヤジですね。ヤジっていうと軽い感じはしますが、不規則発言ってつまりルール違反じゃないのかなぁ、とか。

情けない事に「ヤジっている方はまだマシなんだ」と思わせてくれるのは、寝ている方がいらっしゃる事ですかね。いわゆる内職していらっしゃる方もいるようですよ。議事に関心がないって事なんでしょうね。

地方議員の様子がメディアで沢山流れていますが、インタビューで寝ていた事を悪いと思っていない応答をする議員が結構いる事に驚きますし、「他の議会や国会でも寝ている人が沢山いるでしょ」という内容を返す姿も流れてきます。問題になっても再選すればOKだとか・・・子どもには見せたくないなぁ。別にきれいな部分だけを見せようという訳ではありませんが、そんな情報ばかり与えていたら政治参加に関心意欲なんか持てませんよ。

随分前ですが、地元の市議会が議会の様子をライブ配信するようになりました。子どもと一緒に視聴した事がありましたが、幸いな事に地元市議は皆さんちゃんと進行していました。良い自治体だなぁとそれだけで思ってしまいます。

 

話し合いといえば、TV番組でも結構ありますけれど、昔よく見ていた深夜帯の「朝までなんとかTV」みたいなのが多くて、人の話は聴かないで主張の応酬というイメージしかない。お互いの主張を聴きたいのだけれど、声の大きい方、言い方の強い方、早く言える方が勝ってしまう。どっちが正しい?なんて結論は期待していませんが、双方の視点は知りたい。でも主張内容ではない所で「勝負」している感じがして・・・好みではないし、話し合いのサンプルにはならないなぁ。

ディベートの技法として、どうかなぁ?と考えた事もありますが、勝負感は悪くはないのですが、とにかく「自己主張して聴かない」姿が多いので、私が育てたい姿とは違うなぁと。「要するに」と言った後が長くなる人が多いので、技法としてもどうなのかなぁ。「要するに」と言って「もう終わるよ~」と見せかけて喋っているなら、頭は少し良いのでしょうけれど、それって話し合いじゃないし。

教材になりそうな討論番組ってないかなぁ。でも、もしかすると、主張ばかりの討論が日本国の考える「子どもが目指す姿」になっているのかもしれません。社会がその状態なら、そこで生きる力を育てるのが学校だもんなぁ・・・私には難しいです。

板書

今日のリモートお勉強会は板書についてでした。授業で黒板をどう使う?というヤツですね。

事例を提示してくださる先生たちは、皆さん教材研究をよくされている方ばかり。研究会に参加している時点で職業意識が高いと思います。職人意識かなぁ?

板書1つ取っても、色々な役割があるんだ、という事をあらためて意識できた時間でした。先輩先生が上手に整理してくださるので、注意障害傾向の私でも分かり易い学習時間になっています。

「流れの見える板書」かぁ。そこまで意識高くなかったなぁ、と昔と同じように反省する訳ですが、「誰のための板書なのか?」「何のための板書なのか?」という話に進んでいくと、現役の時にそこまで考えていたら、自分はどうしただろう?と思ってしまいます。

ぢゃあどうしてたかなぁ?と振り返ると、結構いい加減だったような・・・空間認知力はそれなりにあるのですが、見通しを持つのが苦手なのと、臨機応変さが無いのが致命的ですね。毎日の事なので、意識してやっていれば、それなりにできたのでしょうけれど・・・子どもが読める文字を意識する事でイッパイイッパイだったかな?

先輩のマネをして模造紙を使ったりもしましたねぇ。「OHPを提示しながらシートに書いちゃえば早く書けるかも?」と考えて眼鏡に色つけて眼を保護しながら一時期やっていましたが、シート購入が微妙に家計に響くのと、OHP投影機自体が学校から消えちゃったのと・・・。

学生の頃や初任者研修の指導案には、「板書計画」なんてモノがあったりしましたが、そこに引っ張られて授業がメタメタになったりヌタヌタになったり・・・まぁ授業下手でしたので(^^;)

 

1年生の板書について聞かれましたが・・・9月に文字イッパイの板書をどうみるか?支援視点としては、困る子がいるかどうか?なんですが、巧く整理された平仮名だらけの板書を見て、それが必要なモノであった場合、どこまで非文字表現できるだろう?と考えてしまいました。情報を絞って量を減らすのはアリだと思いますし、今考えれば、文で書かずに単語で書くとかも考えられます。その単語を絵や図にできるか?

一般的に考えれば、1年生の9月って微妙な時期だなぁと思うんですよ。1学期で平仮名の学習が全て終わっているんだっけ?・・・にしても、『忘却の夏休み』を超えて再登校する9月。定着具合はどうなんだろう?

そう云うところまで説明できれば良かったのかも知れませんが、思いついた事を全部話しちゃうと、話が下手だから内容がドンドン反れてしまうので・・・支援に関心のない先生なら、発達段階の話をするのでしょうけれど、困り感のアンテナ感度が良い先生である事は判っているので、まぁいいや。

指示じゃ無いしね。

「1年生の初手から板書で指示」ってよく見ますよ。私もやっちゃっていました。でもね、文字を習うのはこれからなんですよ?公式には。

黒板に「しずかにしましょう」と先生が書いて、読める子どもが読んで、みんなに伝わって何となく指示が通った形に見える。そんな手抜きが通用していた20世紀。

指示と授業板書では、やっぱり使い方が違うよねぇ。板書に限らず、1年生に限らず、文字未定着や語彙未定着の児童への指導や支援をどうするかって、もう少し考えないと困るんだろうなぁ。

それにしても、たまにこういう場面が無いと、色々鈍りますね。良い刺激になりました。

○○教育法が・・・

有名人の親が行った教育方法が本になったり紹介されたりする度に、犠牲になる子がいるんだろうなぁと思って見てます。

「○○○にあこがれて」とか言いながら、野球選手やサッカー選手が語っていた方法を子ども自身が真似るのは良いと思うんですけれど、保護者が半ば強制しているのはどうなんだろう。

子どもそれぞれに特性が・・・強いところと弱いところが違うので、まず最初にその方法が子ども本人に適しているのでしょうか?って所があります。そこが後回しになるんだよなぁ。

本人に合ってなくても、自分で選択したんだったら頑張ってみるのは良い経験になりますし、モチベーションや環境によっては成功体験につながることもあります。

成功者が行ったやり方を参考にするのは良いとして、アセスメント無しにそのままやろうとしても巧く行かない事が多いんじゃないかしらん?

そういった本・・・発達障害の特性別教育方法系の本は多く購入して、来室する保護者や教員に眺めてもらったり貸し出したりしていました。自分もマニュアルが無いと不安になるタチなので、そういうトコロは共感できます。自分の場合、無いと不安なくせにマニュアル通りにできない所が難点なのですが。

たくさん購入するのは、選択できるようにするためです。理屈から経験談から紹介系から漫画系から、いろいろ置いてあれば、どれかに引っかかってくれるんじゃないかなぁ、と。また、いろいろ置いてあれば、やり方は1つじゃないんだ、と無意識にでも思えるだろうし。

お試し気分じゃない方が「○○子育て法」を買って、「巧く行かない・・・」と悩むのが悲劇の始まりのような気もします。

 

教育法って事は、家庭教育だけじゃなくて学校教育だって同じかな。

授業方法も結構「○○法」みたいなものがあって、私もいろいろやってました。一読総合とかキミ子式とか仮説実験授業とか・・・中途半端に読んで、形から入って自分勝手にその形も変えていっちゃうので、この期に及んでもオリジナルがどういうものか判っていない事が多いですが(^^;)。そういう授業方法の中にはその方法だけで支援につながるモノもありますが、やっぱり学級の実態で巧く行ったり行かなかったりします・・・学級の実態ではなくて教師の技量かなぁ。私も授業巧くなかったモノで・・・

 

子どもの実態抜きに教育方法、指導方法、支援方法が先になるのはやっぱり危険だと思いますねぇ。実験気分なら良いと思います・・・そうね、若い頃の自分に言ってあげたいですね。「授業研究は研究なんだから失敗してこそだ~」と。毎回異常に緊張してたなぁ。

体育でマスク無し という方針が出るそうです

振り返れば一斉休校が3年前の2020。その後、人数を分けた登校などがあって、今に近づいて来たんだなぁと思うと、結構時間をかけています。その位の慎重さが当たり前だと思いますよ。休校開けの時期は運動会や遠足が出来なかったりもしていましたが、復活してきていますね。

2020の後半からあちこちの小学校にお邪魔させてもらってましたが、割と早い時期から距離を取れない子はいたし、マスクが意味無し状態の子はいたし。人数が数%だったのが増えていって逆転している、という感じでしょうかね。

教室の広さは3校で測って6m×6mの36㎡。45人学級時に作られているので、単純に1人当たり0.8㎡になります。実際には黒板から座席まで舞台の距離をとるので、もっと少なかった訳です。

舞台を考えると30人学級で1㎡という計算になるでしょうか?それでも通常、黒板までの距離が1mって、近すぎるのでもっと距離をとるんじゃないかと思うと、30人学級でも1㎡は取れていない計算ですね。

物理的に距離をとるのは難しい訳です。

でもそういう理屈をこねなくても、子ども同士の距離は取れていません。

参観した教室がほぼほぼ落ち着いていないこともあるのですが、低学年は結構早い時期から、「顔はマスクにかかっているけど普通の状態」でした。「お友だちと距離をとる」この辺りの指導は難しいですねぇ。定型発達の子でも、先生が指示したからってその通りに行動するのはレベルが高いです。1年生の教室で「1mはなれるんだよ」と声をかけている先生を何人か見て、1mを習うのは何年生?とかは思ってしまいましたが・・・この機会に1mを意識させられれば「生活算数学習」で良いのですが、そんな感じにはなっていないみたいでした。学級の色も影響しますが、高学年になるほど守られている場面が増える感じですね。まぁ全部は無理ですが。中高生も登下校の様子を見ていると似たようなモンかな?と思ってます。

と云う訳で、体育でマスク無しと言われても、今更感を抱いてしまうのです。

 

それはそれとして

10年前の放射線で「安心と安全を分けて考えてることが大事」と言っていた人が政府にもメディアにも沢山いました。安心できないという人々に「科学的に安全が確認されているから大丈夫!」みたいな?最近ニュースで採り上げてくれないけど現在進行形の除去水だって同じだと思うんですが。

covid-19については科学的に安全が確認されているのでしょうかね?この場合virusの解明がどこまでされているかって事になると思いますが、「研究中」ってことが結構出てくるんで気になります。

「日本は被害が少ない」「重傷者の数が減った」なども統計なので科学的ですが、それって人々には安全じゃなくて安心の説明じゃないのかなぁ。「多くの人が大丈夫」みたいな?でも少なからず被害者が出るのは仕方が無いっていう事じゃあないのかしらん?政治とか社会ってそういうモノなのかなぁ。

教室は小さな社会ですが、自分の教室がそういう理屈で動いていくのは嫌だなぁ。できないモノはできないんですが、少なくともできることはやってから「仕方ないねぇ」となって欲しいな。少数を切り捨てる方針で学級経営は出来ないと思うんですけど。

基礎疾患のある人は重症化しやすいって今も言われています。学級では少数派になる訳ですが・・・一律に「マスクしなくていいよ」となると、「政府の方針です」とアタリを強くする人も出てきたりします。そう考えると今回、体育という場面をつけたのは良いやり方なのかも知れません。安全の根拠がもっと欲しいですが。