ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

感染症専用ダイヤル

昔から風邪をひきやすい体質らしく、発熱、頭痛、下痢、喉の痛み、鼻水、咳、倦怠感・・・そういった症状のどれかが朝には日常的にでてきたので、単一症状で気にしたことはなかったし、多少重なっても仕事に出ていたのですが、コロナ時代(←この表現は適切?)になってからは、そう云う訳にも行きません。

県のHPをはじめ、ニュースなどのメディアで「発熱したら」という表現が多いので、熱さえ出なけりゃ大丈夫と永らく思っていました。

風邪症状であれば熱以外でも、って云うのが正確な情報なんですねぇ。これを知ってから、複数症状が続く時には感染症専用ダイヤルにかけるようにしてますが、つながったことがない (T_T)

症状が続いていれば、時間を空けて再チャレンジしますが、その内に治まっちゃう・・・治まらなかった時が恐いですが。

 

明けましておめでとーございます

と云う訳で、新年がやって来ました。勿論旧暦です。初詣に行こうと思っていたのですが、風邪症状が出てしまったので、引き籠もっています。

太陽暦生活って西洋に合わせて明治時代に始まったから、たかが百数十年。それは神様の都合には合わないんじゃないかと思って、神社への初詣は旧暦で! 

と思っていたのですが、よく考えるとですねぇ、旧暦だって中国から伝わったのかな?と。そうすると、仏教伝来辺りからかなぁ・・・6世紀の538年or552年なので、古い方で考えて1484年前になるわけです。蘇我氏VS物部氏が争った背景の1つが仏教だったって云うから、神様たちは暦のない時代にも祀られていたんじゃないか?と。

「県内最古の神社」で検索すると海老名の有鹿神社がでてきます。説明文を読むと元々は縄文時代の水神様だったとか。

大山阿夫利神社に伝わっているところでは、二千二百余年以前の崇神天皇の時代に創建されたと。崇神天皇の時代が何時なのか、という問題はおいておいても、大山山頂からは祭祀に使うような縄文土器が出土しているそうです。

その麓の三宮比々多神社は1万年前から信仰の対象であったとの記事も見られます。縄文時代の遺跡ストーンサークルが残っています。

 

その様な遙か昔、年の初めってどういう感覚だったのかなぁ?

 

ギリシャ神話のデメテル神。映画「アリオン」が懐かしい。神話の中でこの人が季節のきっかけを作っているのね。植物の再生を願う祭りが冬至に行われて、ココが元旦になるわけです。

日本神話にそういうのってあったかなぁ?

再生って意味では天岩戸神話はアリかな?天照大神が太陽神だし、日食のことだって云われることが多いけれど、夜の長い冬至を象徴していても良いような気もしますが。

大国主もそれっぽい話があったような・・・ウサギとガマの穂は動物かぁ。ちょっと遠いかなぁ。

スサノオが接待してくれた女性神を殺してしまい、そこから穀物が生まれる話は再生だよなぁ。季節感がないけれど。

調べたら出てくるかしらん?それまでは、吉田兼好流の考え方でいいや (^^;)

算数の大事さを実感する時

今日のZOOM研究会は、算数の授業でした。よく考えられている授業で、勉強させてもらった感がすごかったです。久しぶりに算数科研究しました。

 

関連して昨日のことですが、

 

車検から帰ってきた車に給油してあげないと・・・

県内GSの値段一覧がネットにありましたので、一寸調査。10km先に10円安いGS発見!

満タンにして満足して、帰路について、車中でふと考えた訳です。「本当に得をしているのか?」と。

 

表示を見ると平均燃費は15km/L でした。往復で20km。給油量は20L です。さて?

 

20L で10円安いから200円、近所よりもお得なんです。

移動に使った燃料を計算すると1.33・・・L です。1L=150円で計算すると20kmの移動には200円かかります (>_<)

現在、150円なんて値段ではありませんから・・・と云うことは損していることが分かりました (T_T)

しかも、近所だったら楽天ポイントもついたのに (;´Д`)

 

算数って大事だなぁ

大丈夫ですって言われても

周囲で学校閉鎖が増えてきています。なかなか落ち着きませんね。学級閉鎖や学校閉鎖はインフルエンザの大流行なんかで過去に見た景色ではあるのですが・・・昔馴染みのインフルエンザに比べると、2年も付き合っていながら正体不明の報道が流れるコロナには、やっぱり同じような気持ちにはなれないです。

経済活動の停滞を危惧する方々の「大丈夫」という声が大きくなってきてはいますが、医者も学者も意見は様々で、どう考えれば良いのか??

でも、「大丈夫」寄りの医学専門科の方々の話を聴いていても、「0コロナは無理」という辺りは正直に出てくることが多いです。重症化する確率が減っている、といった表現が多いように思います。

「○○と推測されます」「データ上は治まってきています」とか言いますが、その辺りを上手にお話しして、大丈夫派は大丈夫な雰囲気を、慎重派は慎重な雰囲気を醸し出している感じでしょうか。マスコミや出演者の演出に騙されないようにするのが大事だよなぁ。情報教育ですねぇ。

何が分かっていることで、何が分かっていないことなのかを分かり易く報道してくれるところは無いのかなぁ?

国立感染症研究所

結局ここ↑ から色々開いて見て、専門用語で頭をグルグルさせながら、自分の行動を考えるしかないのかなぁ。ざっと見て、分かってきたことも多いけれど、まだ十分には解明されていない感じかなぁ。まぁねぇ、普通の風邪だって解明されてない事が多いって言うし・・・症状緩和薬じゃなくて特効薬を作ったらノーベル賞モノだって、昔誰かが言っていたような気がします。

私自身は重症化リスクが高い人なので、大丈夫派の人が言っている「致死率も下がっているから、犠牲者の数も減る」論の犠牲者に入る可能性が高い訳で・・・

確率が低いからって言っても、死んじゃう可能性だからなぁ・・・もういいやって気持ちもない訳ではないけれど、引き籠もって避けられるなら引き籠りを選んじゃうなぁ。

やっぱり

あらためてチームティーチングが苦手な事が分かりました。支援級のTTならまぁまぁ動けると思うのですが、定型学級でのTTは・・・。自分が担任で、ゲストをT1にするならまだ動けるのですが、人様のクラスに入ってTxになると、介入の仕方が分かりません。どこまで踏み込んで良いのだろうか?自分のクラスなら後刻のフォローもできるけど、とか。

大学で教わったまんまですが・・・定型学級での学級づくりとは待つことだと思っていました。待ち方は変化しましたが、当たり前に時間がかかりました。学習指導も生活指導も使えるモノは全部使って学級づくりを考え、子どもたちを眺め、なるたけ口出しせずに・・・が理想でした。様子見ちゃっていることが多かったなぁ。

支援級や通級では課題を焦点化してました。個々のスキルアップを課題にするので、待つという意識はあまりなく、個々のペースが当たり前。支援級では介助無し交流にこだわっていたので、入り込みの経験は少なく、通級でも取り出し指導だったので、入り込み指導の経験はありません。

振り返ると、チーム学校の時代には自分の経験値は足りないんじゃないか?と思います。自分のペースで子どもと向き合いたかったので、方向性の異なる他者の介入を快く思っていなかったでしたし。

個人として指導力が高ければ、担任でもTxでも支援級でも定型学級でもバッチリ・・・と思ったりしますが、それほど高い指導力のある教師は少数派じゃないかなぁ。「この人なら」と思える知人教師は両手くらい?そこには確実に自分が入りません。だって、能力のムラがありすぎますもの。

 

今更そんなことは分かっていることなんですけど、やはり指導は難しいです。自分の非力さを痛感します。日々勉強で頑張れるところまで頑張るだけですが。

場所

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実際に退職する10年以上前から自分の退職について考えていて「公立学校だからできること」「公立学校ではできないこと」といった視点で職場や仕事を眺めることが多かったので、在職中から色々企画は考えてきたのですが、動こうとすると色々お勉強が必要な感じです。

仕事場の設定と仕事内容の優先順位について迷っている時間が長くなっています。

 

そんな中、今日から新たな小学校で働くことになりまして、夜は緊張してよく眠れませんでしたし、朝はお腹の調子が・・・。出勤時間の渋滞を久しぶりに堪能して、個別指導をして、給食を食べました。指導と言ってもインテーク面接みたいなモノで、大したことはやっていないのですが、ヘルプもあったお陰で下手は下手なりに一応形になったかなぁと。

 

起業しようと思って、退職後に必要な環境をあれこれ考えていたせいで、あらためて学校を眺めると「公立小学校って恵まれているなぁ」というのが感想です。在職中はそんな感想は一度も持ったことがありませんでした。

見慣れた印刷室・・・いやこの学校のは今日初めて入りましたが・・・は宝の山ですな。紙がいっぱい、印刷機も数台。

指導に使う部屋だって、立派なもんです。天井に大きなフックがついているので、昔はプラネタリウム室だったのかなー?と。丁度良い広さで、15㎡くらいかなぁ。このくらいの広さの場所を駅前で借りたら家賃はいくらになるのかなぁ?

まぁでも一番は事務かなぁ。退職して一番困っている分野が事務だもの。簿記の勉強でも始めようかしら。

 

どういう雇用形態なのかもよく分かっていないのですが、2年ぶりに自分の出勤札を見て、ロッカーや下駄箱まで用意してもらいました。朝渡されたネームプレートには学校名と自分の名前と「教諭」の職名。「教諭なんだぁ」と思うと同時に、肩甲骨の上辺りに責任が重いなぁ・・・

3月まで頑張ってみましょう (^^)/

不揃い

年明け初回のお手伝い。一月ぶりの子どもの近くでした。教室から離れていると、思い出すきっかけが無いと言いますか、思いつかないと言いますか・・・。やはり支援を考えるなら目の前で子どもが動いている状態の方が色々浮かんでくるようです。今日も子どもを見ながら支援級担当初年度の事なんかを色々思い出していました。20世紀だったので、交流に対して定型学級担任の理解がなく、市内の支援級先輩担当によく愚痴を聞いてもらいました。

 

在職中は支援級と定型級を行ったり来たりしていたので、どっちの言い分も分かるつもりなんですけれど、交流ってナカナカ巧く行っている話を聞かないなぁと。学校としての力の入れ具合の差や支援教育や交流教育についての理解の差とかが背景になっているようです。インクルーシブ教育って結構前から言われてきていて、何年か前に県は「一定の成果があった」と言ってましたが、当時通級を担当していた私には、「前よりマシにはなったけど問題山積み」としか思えませんでした。定型級が交流について理解が浅いし、深まり様子もない。定型級在籍の特性を持つ子の支援も理解できない。これでインクルーシブ?

通級担当になってから感じたのは、「支援への姿勢は支援級担任とか定型級担任とか関係ない」と云うことでした。支援級担当だから、あるいは支援級担当だったから理解があるとは限らない。経験年数が高いから理解があるとは限らない。それどころか、大雑把に言ってベテラン教師の方が支援に理解が浅かったりします。

ここ数年で自分の周りを振り返っても、全体指導と個別指導のバランスが取れている先生はベテランでも若手でも結構いる印象です。じゃあ、特性に合わせて指導しているかというとそうでもなくて、20世紀と変わらない指導が多いかな?と。個別指導なんだけど、同じ方法でひたすら練習とか?アップデートができていない状態で教師している人が多いんじゃないかな?と思います。

もちろん意識している教員も周りにいっぱいいて、ちょっとセミナーを勧めて以来毎年通っている人や頻りに質問してくる人、研究会に参加して学んでいる人等々・・・意欲高いなぁ。でも忙しくて学ぶ時間の無いと言う人もいます。ブラックな面は行政に何とかして欲しいですねぇ。

 

支援意識の低さを考えた時に、支援意識の一番邪魔になるのが「揃える」だと思います。一斉指導で同一行動をどこまで求めているかで違ってくると思うんです。20世紀の教室と同じレベルの同一行動を求めるのは難しいんじゃ無いかと思います。

昔、「不揃いの林檎たち」というドラマがありましたが、この「不揃い」を認めましょう的な考えは金八先生の頃から多分主張されては来てるのですが、現実には枠にはめる社会であり教室だったと思います。教室には「みんな違ってみんなイイ」なんて掲示してあったのにね・・・まぁ人のことばかり言えないのですけれどね(T_T)

夫婦別姓LGBTインクルージョン等々、今こそ不揃いの時代だよなぁ、と思います。色々な違いを認め合うって口では簡単なのだけれど、具体的な指導が難しいのは分かります。でもまず教室で担任が行動で示してくれないとね。学び方の選択もできない、交流さえ理解できない状態で、多様化する社会の教員なんてさぁ・・・