教員の職場BLACK状況への対策が、相変わらず現場の工夫中心のような印象を持っているのですが違うのかなぁ?確かに仕事の工夫は必要ですが、仕事の本体たる授業を減らさない限りは根本的な解決にはならないでしょう?
英語を導入するなら、せめて片仮名を廃止するとかして欲しい。国語の教科書も横書きにしてしまい、片仮名の代わりに英語で記述しちゃえば済むじゃん?まぁそれはそれで大きな課題が横たわっていますが・・・
個人的には好きな教科でありますが、音楽と体育は削除するとか選択教科にするとか。社会生活を送るために必要な内容順に優先順位をつけて、週25時間程度まで絞ってもらわないと・・・
細々考えても結構絞れると思うんですよね。例えば県名が入ってきて学習漢字は1026字に増えたんですが、ホントに必要ですかね?以前にも紹介しましたが、国字研さんが学習漢字を仕分けてくれています。
書ける漢字と読める漢字でレベル分けするのは良い方法だと思います。加えるなら、何となく意味が分かるレベルで良い文字とか?
やっぱり新潟県民でもない限り「潟」が書けなくても不自由ではないです。読めれば良いだけではないでしょうかね?漢字に関してもまぁ愚痴はイッパイありますが、ひとまず置いておいて、小6の歴史単元なんか、昔と内容は変わらない(そりゃ歴史は増える一方だもん。減る事はないよなぁ)のに時間が減ってきた経緯があって・・・
「時間が減ったら内容も減らさないと筋が通らない」かと思います。時代区分や抑える場面が変わらないなら、せめて登場人物を減らしてみるのはどうでしょうかね?
歴史単元について、文科省は学指解説社会科編で
「・・・第6学年の我が国の歴史学習においては,「世の中の様子,人物の働きや代表的な文化遺産などに着目して」調べることや,「我が国の歴史の展開」を考えること,我が国が歩んできた「大まかな歴史」や「関連する先人の業績,優れた文化遺産」を理解することなど,小学校の歴史学習の趣旨を明示した。
・・・我が国の国土と歴史に対する愛情は,地域社会や我が国の国土の地理的環境,産業の様子及び先人の働きなどについての学習を通して育てられるものである。小学校社会科は,身近な地域や市や県についての理解を深め,地域社会に対する誇りと愛情を養うとともに,我が国の国土と歴史に対する理解を深めて,それらに対する愛情を養うことをねらいとしているのである。
・・・小学校の歴史学習は,人物の働きや代表的な文化遺産を中心として学習することとしている。児童にとっては我が国の歴史を初めて学習することから,児童の興味・関心を踏まえて,取り上げる人物や文化遺産を精選する必要がある。
・・・実際の指導に当たっては,内容の(2)のアからサまでに示された歴史上の主な事象に対応する人物の働きや代表的な文化遺産を取り上げるとともに,重点的に扱う歴史的事象やそれに対応する人物などについては,資料の数や扱う授業時間数に軽重を付けるなど,指導の重点の置き方に工夫を加え,人物の働きを具体的に理解できるようにする。その際,児童の発達の段階を踏まえた教材,資料の内容や提示の仕方などを工夫し,学習活動を具体的に展開する必要がある。
・・・第5学年及び第6学年においては,我が国の国土や産業,政治,歴史などについての理解を深めることが目標であり,地域教材を取り上げた学習にとどまることのないよう指導計画を工夫する必要がある。・・・」
と云うように書かれております。
この中で「例えば・・・」と示されているのが42人の人物です。実際の授業では、これ以上の人物名が出てきます。関連する人物や地域の人物などですが、そういう関わりを感じてもらうのも社会科だと思います。でも、こうやって示される事で42人は「小学校必修人物」とか云われて広がってます。市販テストには必ず出てきますし、中学受験の基準にもなっているようです。必修人物は削りたいなぁ・・・どうせ削ったって授業で扱う率は高いんだけど、人物が減れば焦点化しやすくなって教材化しやすくなるんじゃないかなぁ?
6学年社会科の公民分野の拡大に伴って、歴史単元の時間が短くなってきているのに、内容が減ったように見えないのですが・・・普通に考えて、歴史って増えるモノじゃないですか?子どもに言った事もありますが「10年経ったら今日も歴史」です。また、新たな発見があれば歴史は増えます。土器が発掘されなければ弥生時代や縄文時代なんて言葉を覚える必要もなかったんですよぉ!!
愚痴は色々出てきますが・・・ここで採り上げる基準は「人物の働きと文化遺産」なのですから、働きが明確でなかったり、学習で取り上げる内容に合ってなければイケない訳です。有名だから採り上げるんなら坂本龍馬も入っていないとおかしいでしょう?有名無名は関係なく、その時代を体現するような事績を残した人物に絞ってみたいと思います。
源頼朝の肖像画に「伝」がついたのはいつからだったか?研究が進んで史実が新たになるのは良い事ですが、そのためにも未確定な事は未確定な事として教えるって云うのも大事だと思うんですよね。個人的に記紀やその他の伝承に歴史が反映されていると信じちゃっていますが、歴史教育としてはどうなのでしょう?一方の資料にしか出てこない人物は実在を疑われても仕方がないと思います。また、そういう視点を育てるのも大事な内容だと思います。
そうやって考えたら結構削れると思うんだけど、どうでしょう?漢字と同じように仕分けが出来るかな?