ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

見えないものは分からない2

 

教える人って常にアンテナを張ることが大事なのでしょう。

授業の仕方はこれでいいのか?とか、子どもは理解できたか?とか、そういう事を考えている教員は会話していて安心感が感じられます。教育相談をしていると、保護者の不安の背景にこの辺りの欠如があるんじゃないかなぁ?と感じられる事がちょこちょこあります。

 

真実どうか分からなくても、本人的に巧くいった実践があったとします。まぁ、巧くいったと思っていれば、次のクラスに活かすのが普通ですわ。

でも「活かす」のであって、「なぞる」んじゃダメなわけです。だって構成メンバー違うもの。

大部分の生徒が無理すれば付いていける状態だと、教える方も「これでいいんだ」と実践に自信をつけてしまうわけです。「これでいいんだ」と思うとアンテナを張らなくなるんじゃないかしら?

で、支援の相談に来た保護者に根拠なく「大丈夫です」と言えてしまったりしているのではないかしらん・・・ふぅ。

 

 

このような根拠の弱い自信の強い先生(ややこしいなぁ)が大丈夫の根拠としているのはテストかなぁ?あとは授業の小課題?点数だけでなく、個の誤答分析までしていれば見えることは増えますが…

そもそも塾に行っている子も多いし、教科書なぞっている授業では、良い実践かどうか分からないですよねぇ。指導によってつけた力なのか、他でつけた力に乗っかった指導なのか・・・?

その辺りの分析がないまま自信を持たれてもなぁ。不安を感じている保護者に向かって「大丈夫」としか言えずに、その根拠が示せないのも頷けてしまいます。

 

授業は見えないものが多い仕事なだと思っています。自信を持つには余程の力がないと・・・と思うのですがね。

老若男女に関係なく、すごいなぁと感じる授業者は、今日の実践に満足しないですよね。反省して次の工夫を考えて、という事を当たり前のようにやっています。

見えないところを見ようとしているように感じます。信用とか安心感とかはそういうところから生まれるのでしょうね。

 

見えないものは分からないって、ASDの特性として出てくるフレーズでありますが、普通に体験することが多いのではないかしら?

どんどん便利になっていきますね

「便利」って「手間がかからない」っていう事だと思ってる。

 

 「手」と「間」なんですね。「手」は力や技巧、「間」は時間でしょう。

こういうことの負担が軽くなるっていうのが「便利」って事だと思うわけです。

 

手作りにはナニガシカの器用さが必要で、製作時間もかかる。

それが「ボタンひとつ押す」になる事で、複雑な指の動きは必要なくなり、体力と時間を使うことなく効率的に作業することが出来る。

余計なことに時間をかけたくないから、生活はどんどん便利なモノであふれていくっていう流れだと思う。

 

生産力向上のために、工場は手工業からオートメーション化してきたんですよね。伝統工芸品は手作業が多いと思います。技が必要な工芸品が多いというイメージがあります。後継者不足で「技が失われる」という台詞はよく聞くのではないでしょうかね?

 

さて、生活の上でも同じ事が起こっていると私は考えるのですが、別に困っていないために、失われた技について、真剣に分析する人は多くないような・・・

 

紙工作作家みずたにいさお氏がずーっと前から言っていたのは、

「生活の中で手首をひねる動作がなくなった」

ということでした。水道の蛇口、ドアのノブなどの例を聴くと、確かにそうだなぁと。

遊びが画面型ゲームになり、コントローラーを動かすだけの動作に。

電話は携帯やスマホに。

調理機器も大変便利になりまして・・・。

色々な場面で指先のみの動きに変化してきたのですね。

 

時間を掛けなくて済むということは、待つ場面が減ることですねぇ。普段から待たないから、待てない人が増えました。もちろん子どもにも影響してます。かつて待つ生活を経験してきた人でさえ、今の生活に慣れているのではないかしらん。

 

さて、どんどん便利になっていく中で、人はどう変わるのでしょうかね?不器用で、衝動性が高い人が増えることは予想できますが、それだけで済むのでしょうか?

放っておいても視覚支援が広がるんじゃないかと思ってしまいました

落語家の桂歌丸さんの記事がyahooニュースに載っておりまして、

歌丸「裸でお盆の何が芸か」

とトップページには書かれておりまして、中身を読むと、日本語を使った芸が大事ってことかしら?言葉を使う芸が本筋みたいな?

落語って教養がないと笑えない話芸だって先輩が言ってました。私は寄席に行ったことくらいはありますが、それほど聴いているわけでは無いので詳しくないのです。歴史的な事件や和歌などのパロディー?みたいなのが噺の中に出てくるので、知らないと面白みが分からないものもあるようです。

子どもの頃に漫才ブームがありました。漫才も話芸ですよね。でも、その中でも動きで笑わせるものもあったのですわ。「コマネチ」とか有名でしょう。

コントは会話に動きが付くので、場面の臨場感が出ますよね。セットや小道具を使うと、分かり易いでしょう。

落語は、扇子と手拭いを使って色々な小道具を生み出しています。演者にも聴者にもイメージ力を求めている感じでしょうか?

そういうところからすると、裸でお盆の芸は、見たままを笑おうとするものナノかしらん。

言葉を理解するのが難しくなってきたからさ、言葉はなるたけ使わない・・・文章化しない方が良いよね。単語やフレーズを使うことで分かり易くなります。

動きだけなら何でも良いわけではありませんよ。チャップリン無声映画なんか、長いからストーリーをたどらないといけない。短くないとね。

こうやって視ると、最近のお笑いは合理的配慮してる?

逆かな?視聴者側のイメージ力が低下しているのでしょうかね。それとも、分かり易い笑いに飛びついている内にイメージ力が低下しているのでしょうか?

どちらにしても、マスコミがこれを強化しているということになりませんか?

教育改革を掲げる政治家な多いですが、本気で子どもを育てるつもりなら、マスコミやゲームに手を付けないと・・・学校だけで変わるわけないじゃん。根本は社会だよねぇ。

歌丸さんの思いとは逆に、深く考えなくても笑えるようなモノが流行っていくのでしょう。もちろん笑いだけじゃなく、世の中どんどん便利になるので、器用じゃなくても大丈夫だし、色々なところで考えなくても済みますね。この便利さの筆頭はきっと視覚支援なんだろうと、思っているのですが・・・ん?結局何の話だ?

迷惑なベランダたばこ

だいたい、何故ベランダでタバコを吸うのか?

理由としては、

①家族の受動喫煙を防止するため

②部屋に臭いやヤニを付けないようにするため

というのが大きいのではありませんかね?

自分ちの窓を閉めてベランダでぷかぷか・・・そうするとねぇ、煙は左右or上方の開いている窓に吸い込まれていくのですよ。

自分の家族をタバコから守るために近隣に健康被害を及ぼすワケです。なんて自分本位な行動なのでしょうか!

しかも、近所の部屋を汚しているわけですから、価値が下がれば経済的被害も受けることになったりしますかな?

洗濯物がたばこ臭くなったことはありますよ。洗い直しましたけど。

ベランダタバコのせいで、健康被害を被ったとして賠償命令が出たとか聴きましたが、ホントですかね?

 

喫煙施設を外に置くのが、そもそもの間違いです。完全密封した部屋に空気清浄機を置いて喫煙してくださいよ。歴史で習ったアヘン窟みたいなのを造ってさ、思う存分吸えば良いじゃん。

車やバイクを運転しながら吸わないで欲しいね。あ、吸っても良いから、窓開けないでよ。

タクシーも、喫煙車と禁煙車をきっちり分ければいいじゃん。運転手さんがタクシーの横で一服するようなことしないで欲しいなぁ。喫煙車にして車中で吸えば良いじゃない。

 

野外で吸うなら、10mは離れて欲しいの。そのくらい離れていても不快な臭いはやってくるのだけれど。

飲食店で吸うようにしても良いと思うよ。表示してくれれば良いじゃない。喫煙店と禁煙店と。選ぶのは客なのだから。

入り口に喫煙エリアを設けている禁煙の店・・・・近寄りたくないなぁ。風向きとか考えて設置して欲しいね。

中途半端な分煙の店・・・看板に偽りありってやつだね。偽ってはないのかな?一応席が分かれていれば。でもねぇ、漂ってくるんだよね。臭いが。

臭いって成分じゃん。

 

蛍族の絶滅を希望します。

カルピス劇場アルプスの少女ハイジ

カルピス劇場は「ムーミン」とか「ロッキーチャック」とかパトラッシュが出てくるやつとか・・・ご幼少のミギリによく視ていたものですわ。先ほどハイジの動画を視ていて、これはどんな人を対象にしたアニメだったのかなぁ?と思いました。

 

「まんがはお子ちゃま」という見方が世の中の主流で、まんが、アニメ、特撮ヒーローなどなどは、教育の反対側に押しやられていた時代という印象を持ちます。

 

子ども向け番組に社会派メッセージを織り込むのは、ウルトラセブンが有名ですよねぇ。あと「複雑で子どもにはわかんないよね」と言っていたガンダムとか。

でも、こうやって改めて視聴すると、子どもには分からない?残りそうもない?という台詞がハイジにも出てきたんだぁ、と。

雨の日はゆっくり考えるのには最適で、人間にはそういう時間が必要なんだ、みたいなことを、沖田艦長みたいな顔してるくせに一休さんに出てくる和尚さんの声がつぶやくわけです。再放送で何度も視ていたハイジですが、気に留めたことはなかったなぁ。

見えないものは分からない

「相手の事情を想像する」というのが難しくなってきたのかなぁ。世の中は便利になったのだけれど、その分弱くなっちゃった力の一つだと思うわけです。実は私もこの面が弱いんですよ。時間をかければ想像できるのですが・・・。

相手の事情を考える機会も少なくなったのではないかしらん?携帯のおかげで、「ただ待つ」ということが激減したでしょう?すぐに連絡ができるのだもの。想像することなく答えをすぐに獲得できます。「思いを巡らす」事はないよなぁ。

連絡が取れなければ、想像する機会が訪れますが、すぐに答えが出ないことにイライラする人が多いようです。イライラは視野を狭くします。視野が狭くなっている人は、やはり想像の幅も狭いようで、自分本位な解釈に陥りやすいように思います。相手の事情を考えるより、イライラが優位になるんだなぁ。

「思いを巡らす」とか「色々な可能性を考える」ってのも訓練だなぁ、と思います。