ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

給食や調理実習の変化と栽培教材

秋に介助員さんに頂いた柿。中の種を水につけて1ヶ月。半分くらい発芽しました。結構出るもんですねぇ。ここから成長過程で残るのは何本かなぁ。8年経ったら実ができるのかしらん?ん?ドノクライ大きくなるんだろう?これは引っ越し先を再考しなければイケないのでは?

等と考えつつ、発芽したモノをスポンジ地に植えてみました。

定型学級担任時代は、給食なんかで種が出ると教室の窓際で育ててみたもんです。私自身が「育てる」全般が下手で(よく教師なんかやってたなーと思いますが)教室で預かる小動物の死亡率がとても高かったり、ベランダの栽培教材の育ちが一番悪かったり、教室の鉢植えも最初に枯らすのは私が多かったり・・・見かねたのか、40過ぎた頃に先輩や後輩から鉢植えの育て方をレクチャーされて少しマシになった記憶です。

そんな私ですが教室で出た果物の種などを植えてみることは多かったです。毎回やっていた訳では無いのですが、食べているモノの素性に興味を持ってくれたら良いな、などと考えて始めた感じです。大きく考えれば、いのちを考える教材にもなりますし。途中から「食育」なんてのが流行りだしたので、そこにも当てはまりそう、とか。そうだぁ食育・・・栄養士さんとか同僚の先生とかお世話になりましたねぇ。意識付けは昔の同級生にしてもらった感じです。

そういう思いはあっても、肝心の「育てる腕」が無いもので、苗っぽくなることは少なかったのですが、子どもの方が興味を持ってくれるなどして、世話に私以外の手がたくさん入った時には結構育った記憶です。いやぁ、こんな所でも子どもに助けられていたのですねぇ。

世紀末辺りの教室で育てたビワは給食で出て来たモノの種だったかなぁ?苗に育てたクラスと記念樹として植えたクラスが違うっていうのも面白い想い出ですが。

最後の定型学級の時は、盛り上がってくれる子が何人もいて、苗が40本以上できてしまったので、学級終いに1人1苗をお土産にしました。生存率には興味あります。まぁ1割育っていたら凄いですよね?地植えにしたと報告してくれた子もいたのですが、今頃大きくなっちゃって迷惑になっていないだろうか・・・

今の給食で出てくる果物は生がなくて、近いのは小田原冷凍ミカン?解凍した種は発芽するの?興味はありますが、子どもの興味はどうだろう?

調理実習でも結構果物使ったんだけどなぁ。今はサラダも温野菜サラダだし。お菓子作る時間的余裕もなさそうだし・・・ジャムとか作れば種が期待できそうだけれど。

O157以前は学校での生ものOKだったのですが、あの年から給食や調理実習の内容が変化してきて現在に至っています。まぁ仕方ないよねぇ。でもなんでO157って急に流行ったんだ?

一般健康診査

今日は退職後で初めての健康診断へ行ってきました。元日の99,9kgをピークに再び上昇した体重ですが、検診では100.6kgで再び2桁に近づけました。

血液検査や問診的なものは毎月通院時に行っているので、必要ないかなぁと思っていたのですけれど、昨年通院時に「検診は受けましょう」とポスターが貼られておりまして、今回の受診に至ったのでした。確かに肺のレントゲンは撮ってなかったので、良かったです。1年ほど前から胸が痛くなることが何度かあって、不安ではあったので、どうしようっかなーと迷っていたところでした。とりあえず肺の様子は分かるんですよね。あとは心臓かぁ…まぁそこは仕方ないかなぁ。

食事量が減っても体重は落ちなかったのですが、流石にココ1年は極端な食生活に運動量も増やしたので減量に効果が出ました。でもこの減り方も不安でして、シック状態だから減っているんじゃないか?と不安になるわけです。検診所見をいただけるので、安心材料にはなるかなぁ。フラシーボがよく効く特性を持っているので、ガンぐらいならそれで寛解できるんじゃないかなぁと思ってます。

書類の山の整理をしていて医療記録の束が出てきたので、昔の120kg時代のデータを見ると体の組成で筋肉量60kgとなっていました。100を切ろうとしている現在、筋肉が数値上3割減だということが判明しました。やばいじゃあないですか。足の筋量は増えているのですが、上半身が可愛そうな感じでした。

そう云えば、高校1年時の体育教師がとっても厳しくて、当に「昭和のトレーニング」で体作りを指導しておりました。入学時の私は腕立てや腹筋がほぼほぼできなかったのです。そのことでチームメンバーに多大な迷惑をかけておったのですけれど「できるようになりたかったら後で教官室に来い」とその体育教師に言われまして、行ったらトレーニングについての助言をいただきました。イメージを裏切るような優しい説明だった印象です。

簡単な理論説明や筋肉の必要性についてのお話が前後にあった記憶ですが、行動指示自体は単純で「空いてる時間は全部腕立て」でした。勿論全部実行することはできませんでしたが、毎日何度か実行することで、割と短時間に効果が出て体育教師に褒められるというハッピーエンド。

行動動機が「昭和のトレーニング」だったので、某ヨットスクールとそこは重なる部分もあるかなぁとは思うのです。でも指導の組み立てが理にかなっていることが多かったように思うので、そこの違いは大きいかなぁ。できない子(この時の1番のできんぼは私)の追い込み方に根拠が見える?表現が難しいですけど、納得できる程度のスパルタ?もちょっと違うかもしれませんが。

筋量が減って急にキントレを始めながらそんなことを思い出していました。

腰痛と目標達成: 歩き方改善の挑戦

腰を痛めているくせに歩きには行きたい。目標の場所が三つほどありまして、普通の体の人なら「行ってくればいいじゃん」で済むようなところなのではあるのですけれど。

腰を捻らない歩き方って云うのを動画で見ました。ナンバ歩きと云って右手右足が同時に前へ出る江戸時代までのポピュラーな歩き方だそうです。でも動画の説明をよく視聴してみると、右手右足〜って感じではなく、右足右半身みたいな印象でした。

早速近所を徘徊してみるのですが、確かに撚るよりは良いような感じがします。

別な動画で「歩くと走るの違い」をやっていて、普段歩いているつもりの動きが「ゆっくりと走っている」動きであるとのことで、驚きました。歩行の基礎動作みたいなものを動画で頭に入れて、再び徘徊。まぁまぁできます。後ろに蹴る動作がなくなる感じですかねぇ。

さてさて、この2つの動作が同時にできればOKなわけで、早速2kmほどやってみましたが…難しい(;_;) リセットの年なので、今までの動きをリセットしようと頑張るのですが、長年の積み重ねに負けてしまった感じです。体の動きをモニタリングしながら動くことなんて日常ではあまり無いので、少し新鮮な思いです。

旧暦令和五年十一月廿六日

年明けて何かやる度に「初〇〇」になってしまうワケですが、初電車、初迷子、初銭湯に初探鳥としてきましたが、まだ初買物はないなぁ。そうそう、昨日は初通院でした。多分近隣で営業日?が一番早い個人病院です。暮れから我慢していたのでホント助かりました。

 

せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろ

今日は七草粥の日です。セリ・ナズナハハコグサハコベコオニタビラコ・カブ・ダイコンをパックに詰めたものがスーパーで売られています。でもその辺を歩いていてもカブとコオニタビラコ以外は生えている感じです。川の土手に生えている、あのアブラナっぽい葉っぱのやつはダイコンじゃないのかな?ダイコン原種がこの辺りの河原に生えているって言っていたし。あとホトケノザを見ないねぇ…

特に正月で胃がモタれるようなことにはならなかった…何ならファスティングやってる感じだったので、七草粥はなくてもいいや…そもそも旧暦で動くとするとですねぇ、今日はまだ11月なわけです。今年の旧1月7日は2月の半ばです。一月ずれるんですけれど旬はどっちなのでしょう?

昔からの風習なら旧暦のほうが旬なんじゃないかしらん?と思ってしまいますがどうなんでしょう?昔から、と書きましたが、具体的にいつの時代から七草粥なのでしょうかね?伝統とかは意外に歴史が短かったり背景が意外なものが結構ありますから。

胃のもたれを何とかするだけだったら、別に何を入れても良いようにも思います。七草自体に意味があるのか?粥に意味があるのか?興味深いですが、調べるのは後回し。

とは云え、「七草粥の日」とメディアで騒ぐと「そっかー」と深く考えずに動くのが私も含めた日本人です。七草パックは結構売れているそうですよ?(隣町の大型スーパーの売り場の人の話です)

でも近所に生えているところがあるんだよなー。今度摘みに行ってみようかしらん?まぁまぁ自然のあるこの辺りでスーパーでも購入する感じなのですから、都会に近づけばこの傾向は大きくなるのであって…でも多摩川には生えていそうな気もします。探そうとはしないでしょうね。意識は農産物扱いだろうし…多くは雑草なのですけれど。あ、スーパーで売っているモノはちゃんと育てているので農作物ですね。

七草=雑草というイメージはついているのですが、私の中でカブだけ農作物から離れません。ダイコンの野生種は昔、同僚のおかげで河原で見つけることができましたが、カブも同じように野生種があるのでしょうかね?まだ見たことはありませんが…

七草を揃えたいと思う人は結構いても、それが生える環境を身近で整えようと思う人はそう多くないように思いました。

年明け早々TVの情報伝達の信頼性に疑問を感じる

2024元日は北陸地震。2日は飛行機事故。

TVがないので、普段なら見ることのないのですが、放送局によっては緊急番組をYouTubeで流してくれます。有難い話ですね。で、実況を聴いていると2パターンあるように思うのですけれど。

画面に沿って情報が流れるパターンと画面通りで無い情報がひたすら流れてくるパターンと。ある意味後者は誤情報を流しているって事になりますか?TVは聴覚だけで情報を得ている方もいるのですから。

起きた出来事が大まかに分かるという意味では伝わっているのですが、言葉で聞いたイメージと画面にズレが出るのは不安だし不満です。

所詮TVなんて・・・とも思いますが、結構影響力があるので困りますね。

快速と急行、どちらに乗る?迷った結果に感じたこと #電車 #快速

年が明けました。でも意固地になって旧暦で動いている意識状態なので、おめでたい感はあまりありません。じゃあ少しはあるのか?というと実は少しあって、厄年とか・・・

元日に実家に顔を出すのが昔からの習性なので、朝から電車で移動しました。電車を使った元日移動はcovid-19前の事なので、横浜駅で迷い、実家と近隣駅の間で迷い・・・お陰で今日の歩行距離は、帰路に弟君が車で送ってくれたにもかかわらず8.2km。

社会に置いて行かれてる感を感じたのは、電車の種類をよく分かっていない点でした。某駅で停車していた「快速」と「急行」目的地は同じです。さぁ、貴方はどちらに乗りますか?

本日利用の鉄道会社は3つ。「各駅停車」はどれでも同じ停まり方をします。普段使いのO社は「急行」より速い「快速急行」、遅い「準急」となってます。実家近隣の幼少時に使っていたK社は「急行」より速い「特急」、更に速い「快特」となってます。で問題の某駅、S社は「急行」より速い「特急」、遅い「快速」となっています。勿論これは帰宅後に確認した結果で、選択時には知らなかったので、「快速」が速いと思って乗ったら「あ、急行より停まる」と気付きました。

「快速」が付くと速くなる鉄道で長年生活してきたので、こういう判断になったのですが、こんな体験の後「快い速さ」が必ずしも最速な訳ではないなぁと納得しました。

 

実家の街は普段あまり訪問しない場所なので、懐かしく思う気持ちもありますが、凹む気持ちもあって・・・人間的に成長してないなぁとかイロイロ考えてしまうとねぇ・・・それでも1年ぶりに家族に会って色々話せましたし、墓参りもできたし、たらふく食べてしまいました・・・朝に99.9kg(四半世紀ぶりの2桁体重(^_^)v)だったのに、帰ってきたら3桁に戻っていました。まぁ当たり前ですね。

クリスマス意識と信仰

クリスマスセールが終わって、歳末セールになったようですが、内容は対して変わらないんじゃないかなぁ。もういくつ寝ると初売りセールになるわけです。簿記を勉強して歳末セールの意味がわかりましたが、年中セールがある状態ですし、それほどお得感のあるセールはめったに無いですし…購買意欲が煽られる感じはしないです。

クリスマス前日にケーキを求めて行列作っている人がたくさんいました。日本のクリスマス意識はケーキ、プレゼント、ツリー、デートの4つで構成されているんじゃないかしらん?キリスト教の祭日という意識はあまりないんじゃあないかと思います。でも国民の大半がキリスト教信者でもないのにメジャーなイベントになっています。

「日本人の宗教観は寛容であり、土着の神様以外に外来の神様、仏教、道教が混ざって存在している。だからキリスト教にも寛容なのだ」といった説があるのですが、少し違和感を覚えます。寛容であることは頷けますが、クリスマスを広めたのはクリスマス商戦で1900年の銀座から始まったとか?戦前12月25日は休日であったことも影響があったとか?ここに宗教的な匂いはしません。

バレンタインもそうですが、渡来宗教系のイベントは商業絡みで伸びてきたのではないでしょうかね?そこに信仰はないんじゃないかなぁ。

エスの誕生を祝うのがクリスマスなら、釈迦の誕生は花祭り。でも4月8日は12月25日ほどの知名度はありません。神社系だって同じです。受験時期には多くの国民がお参りしている天神社の菅原道真は6月25日だとか。八幡神社応神天皇は12月14日だそうですね。天神社も八幡社も全国どこにでもある感じですけれど、メジャーなイベントはありません。

結局日本って宗教と言いつつも、商戦と関わりがないとイベント化しないんじゃないかなぁ?

自分はキリスト教系幼稚園と専門学校にお世話になったのでイエスの降誕祭という意識はあるのですが、教会に毎年行くわけではありません。でもミサの一般参加を認めてくれている教会は多いので、何度かお邪魔させていただいています。教会の雰囲気は結構好きです。

「日本ほど宗教的な国はない」という話も聞いたことがあるのですけれど、そうかなぁと懐疑的です。宗教由来のイベントが多いだけで、そこに信仰心は無いんじゃないかしらん?

covid-19禍でお祭りなどが中止になりましたよね。疫病退散の祭も中止になったと聞いたときに、科学VS宗教の勝負がついた感じがしました。江戸時代までは疫病が流行れば神社仏閣も常識的な流れ。明治以降、科学的な思考が広がり、病因が明確になったことで神仏に頼らなくなってしまいました。宗教由来であってもイベント化した時点から信仰や信心と乖離するものなんだなぁと云うことかな?

ウイルスが蔓延していても神様が守ってくれるから祭は強行…信仰とはそういうものではないのでしょうかね?