ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

春一番

年によって印象は違うのですが、今年のは大したことないや、と夕方までは思っていたのですが、マンションが揺れていますの…

地震が来たのか、自分の目眩なのか、これを客観的に捉えることができる自己支援を自分の部屋に施しております。お守りやらキャラクターやらが揺れやすいようにぶら下がっておりますので、震度1でもどれかは揺れます。

かなり風速が強いのかと思ってネットを見ると5m。まぁ強くないことはないけど…それよりこれは西風じゃん、というところに驚きました。

夏は太田裕美さんの「南風」でしょう。で、冬は堺正章さんの「北風小僧の寒太郎」なので北風でしょう。ゼフュロスの歌が出てきませんが、西風は秋のイメージだったのですがね。

もちろん「てーきあつ」と「こーきあつ」の位置で季節に関係なく風向きは変わるものなのです…と教えたし。

でも、「春一番」ですよ。春は東風でしょう?東風吹かば〜って。私としては天神さんより先にさだまさしさんの「飛梅」が出てきてしまうのですけれど。春の一番がどうして西から吹くのさ?そーです、分かっています、気圧配置ですよね。でもなんか納得できないなぁ。

いずれにしても春、ですけどね。

給料増やすよりカリキュラムを減らして

少し前に教員の特別手当を増やす記事が出てましたが、今度は給料自体の見直しもするような記事が出てました。これで教育界の人的資源確保が図れると思っているならホントに現場を分かってないんだなぁと思います。つくづく残念です。

以前、退職金で損をするのを避けるために早期退職する話がネットで話題になっていました。「教育者が金で…」みたいな批判的コメントがたくさん見られました。だから給料増やせば人は集まる?そんなことはないと思いますよ。

残業代をきっちりもらえていたら、給料倍近く行ってたなぁとは思います。でも、それによって縛られる時間や仕事内容のことを考えると、調整型の方が融通がきいていて良いと思うんです。まぁ私も古い人間になってしまったので、そう思うのかもしれませんけれど。

保護者相談の時間は今どうしているんでしょう?私が現役のときには保護者の仕事終わりに合わせた時間設定をすることもあったりして、退出時刻のことなんて後回しで考えてましたけれど。そこはバッサリ切ってしまうんですかね?

家庭訪問が無くなった辺りから保護者の顔が更に見えなくなっているように感じています。学校での面談に参加できない保護者は少数ではありますが、保護者が面談のためにどのように算段をつけているかを考える教員も少数ではないかな。

 

授業の構想を練る、なんて時間制限してほしくないと個人的には思うわけです。職場で考えるよりも地域に出てフラフラしていたほうがアイディアがでるとか…

先々「残業代が出るのだから〇〇の仕事を明日までにやっておいて」なんて命令も管理職から出るんじゃないかなぁ。

給料2倍になったとしても仕事量は変わらないのですから、病んで辞めていく人数は変わらないでしょう。金目的で割り切れる人は倒れることは無さそうですけれど、縦割り行政のような学校システム、学級運営になりそうですね。

終身雇用の時代ではないのですから、給料増えて、お金目的で教員になったとして、お金を貯めたら早期退職しちゃうのではないでしょうかね?結局、教育書として頼りになる人は端的に書くと「金より仕事」「金より子ども」思想の人になりませんか?

「金じゃなくて仕事」という教員が病まずに働き続けられる環境、これこそが子どもたちのためになると確信しております!

どこかの大学の先生も発信していましたけれど、「午前中で授業終了」くらいの勢いで学習量を設定するのが良いと思います。個人的には妥協して週25時間。国算理社生総合は午前に、午後を中心に実技系の音図家体と英語とか?低学年以外の音楽廃止とか。言いたいことは山ほどありますが、学習内容の見直しが急務でしょう。

そもそも受験を中心に据えた学習が問題だっていうのは、昭和の時代から言われているのに、その視点での変化ができなかったのは教育行政の一番の失敗じゃないかと思っています。

学級新聞

昨日の宣言通りに片付けをしていたら、学級新聞がイッパイ出て来て活動停止してしまいました。子どもたちが書いているので視点も面白いですし、結構忘れている出来事が沢山あることを再認識したりします(^^;)

モトモトは先輩教師から引き継いだ子どもが何人かいたので、活動も引き継いだというのが最初でした。勤め初めから3年目だったかなぁ。新聞活動についてのメリットも教えてもらった記憶はあります。

それ以降、3年生以上の学年を受け持った時には発行回数の違いはありますが、新聞作成を活動に組み込んでいました。効果はあった事の方が多い感触でした。国語や書写といった直接的な学習だけでなく、情報収集に関わってコミュニケーションスキルや統計の読み取り力、見出しを作る力とか画面構成力なんて事も養成できます。チームで動かすことが多かったので、学級運営にも大きく影響します。

国語や学活の時間を使うことが多かったのですけれど、今の時代では難しいのでしょうかね。

中学高校の時に新聞作りの講習会に連れて行かれたことがあり、その折りの資料が残っていたので、それをモトにしながら「今年のクラスはココねらい?」と的を絞って指導してました。

はじめの頃に指導していた学級は、文章や誤字への基礎的指導がいらなかったので、見出しの指導などをしました。「記事を一言で言うと?」みたいな要約力を培う時間になります。

今だったら・・・指導開始時にあの頃と同じレベルというのは小学生では難しいかも知れませんが・・・「目を引くような一言」とかにするでしょうか。YouTubeやXを活かした社会生活を送る子どもたちなので、反応を大きくするには?でも炎上しないような?みたいな指導になるのかなぁ・・・あまり好みではありませんが。そもそもあの量(B41枚)を書く力があるのだろうか?まぁそこはデジタル作品にするのかなぁ。

YouTubeのサムネイルを見ていると、「本当は」「意外な」「誰もが知らない」と云う言葉が多いなぁと思います。視聴しても既知の内容が多いのですけれど、まぁ確かに目を引きます。「最も~な1つです」という台詞や記事も見かけますが、見出しになっていることは少ないかなぁ。最上級が沢山ある表現って只の大げさ表現じゃん?

まぁいずれにしても、今日の片付け作業は中途半端に終わりました。

東風解凍なんですけれどね

Sprinng has come と昨日書いたばかりなのに、どの辺がspring?という今日の気象状況です。都心辺りとは違い、積雪は草の上と山程度にしか見られませんが、気温は結構下がっていますね…と言ってもプラス気温です。今の部屋の温度も暖房なしで13℃もあります。ちゃんと服を着ていれば寒い感じはないです。

遠い昔に…遠い昔になってしまったのだなぁ…東北在住期間があったので、それなりに寒さ対応はできているのですけれど、南関東に四半世紀以上も留まっているので、体がこっちに馴染んでいる感じもします。つまり寒さに弱くなったんじゃないかと。

それでも10数年前、雪の日にスケート教室へ行った時には半袖で子どもたちとはしゃいでも平気でした。今はそれをやる元気はないなぁ。

 

いつものようにニュースが寒さと積雪への注意を呼びかけています。相変わらず首都圏は雪に弱い。

寒さねぇ。毛布を出そうと思ったら、毛布が見当たらなくって…どこへ行ったんだろう?まぁいいや、とりあえず着込んで寝れば寒くはないでしょう。昔は靴下を履いて寝たなぁ。

そう云えば、私の冬の普段着はTシャツにトレーナーですが、間にワイシャツ的なものを着ると防寒効果が上がることを昔教えてもらいました。こちらに来てからは、主にバイクに乗るときに活用していました。

外の雪はすでに雨になっていますが、このあと気温は下がるようなので、雪じゃなくても道路凍結はありそうですね。まぁ明日いっぱいは大人しくしていることにしましょう。今日進まなかった片付けの続きを…

Spring has come

今日は立春。調べてみると太陽の動きで決まる日なんですねぇ。冬至夏至春分秋分は太陽の動きっていうか地球の位置で決まることは知っておりましたが、24節気ってこれで決めていたのかぁ。

24節気の1つ目が立春だそうで、云わば今日から1年が始まるってことです。あけましておめでとうございます。

旧暦元日が今度の土曜日。してみるとやはり新暦より旧暦の方が季節感は合っているのかしらん?

旧暦みてて思ったのですが、旧暦の2月3日が節分だったのかなぁ?なんて。

でも太陽運行で決まる24節気と月の満ち欠けで決まる旧暦は関係ないのね。旧暦の元日と重なると良い年になるってさ。

それで豆まきは年が改まる前日に行っていたモノだって記事も見たのですけれど、そうすると、新暦12月31日に蕎麦食っている場合ではなくて、紅白見たら豆まきするのが正解でしょうか?そうね、大豆を撒くのは昔からありそうだけれど、「細く長い蕎麦」はせいぜい古くても江戸中期でしょう。

旧暦元日過ぎたら初詣だな。龍関係?厄落とし?二兎を追える場所はあるのでしょうか?

2年ぶりに上京

所属している学会の研究大会があって上京しました。2021年9月の公認心理師試験以来の東京です。新宿で迷い地下鉄探すのに時間がかかりましたが、一駅前で降りて短い散策。お堀にカイツブリがいました。アオジのようなクロジのようなのもいまして、双眼鏡を持ってこなかったのが悔やまれました。

会場でお話しを聴くのも久しぶりで、やはりライブは良いですね。場の雰囲気でモチベーションが上がります。体調さえ良ければ最前列に座ったのですが、今日は安心感優先で最後尾の端っこです。

アセスメントの重要性を再認識できましたし、考えの方向にそれほど大きな間違いはないことで少し安心しました。

何より情報更新の甘さを認識できたのは大きな収穫でした。いくつになってもマナビは必要です。

不適切授業に自分も該当しそうですけれど

「不適切授業」という言葉がネットニュースに出て来ました。自分のイメージでは、発達段階にそぐわない授業という感じなのですが、ニュースになった学校のHPを見ると、「学習指導要領に示されている内容の実施不足(授業時数・履修年次・評価の実施不足等)、教科書の未使用等」と書いてありました。また、今後調査するともあるので、具体的な話が出てくると思われます。

学習指導要領と解説編の文科省ページは

平成29・30・31年改訂学習指導要領(本文、解説):文部科学省

 

授業時数かぁ・・・指導要領に示されているのは、教科の年間時数だけじゃなかったかなぁ?教科書の指導書が配布されるのですけれど、そこに単元ごとに時数は載っていますけれど、これに縛りはあるのでしょうか?

私の所行を振り返ると、基準として意識しながら、増減が激しいススメ方でした。分からない子どもが多いままで次に進むのはマズいでしょう?逆に時間をかけずに終われる単元は短くなる・・・

それでなくとも教室は生活の場でもあるので、色々と問題が起きて時数は削られます。大人のように「あとで時間を取るから」ができないんです。記憶の保存は難しいし、感情のコントロールも難しい。事件を解決しておかないと授業も落ち着かない、とか。でも、そっちの時間の方が社会性育成に必要じゃないかと思います。道徳で本読んで「共感しよう」みたいな授業より、ライブの方が実感持てます。

履修年次は変えたことないですねぇ。中学年社会科が2年間の中で順番を変えられるのですが、個人で2年間持てる訳ではないので、学校で決めてました。自衛隊の授業とかやってみたかったけれど勝手に変えられないし。

評価の実施不足、というのは具体的には何を指しているのでしょうかね?テストだけで評価してなかったので、不足はしてなかったと思うのですが、テストをテストとして扱わなかったことは結構あったかしらん。いわゆる業者テストって授業にあわないことが多かったんですよね。そもそも「テスト」じゃなくて「ワーク」ですから、ワークとして扱っても問題ないじゃん!という理屈です。

教科書の未使用は常習犯でした。国算でさえ使わない時がありましたし、中学年社会科なんて地域学習なのに教科書を使っている方が信じられない!といった態度です。記事に出て来た図画工作の教科書は、何のためにあるのだろう?と思っていました。使う機会が0と云うことは無かったですけれど・・・

「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」という言葉がありました。目の前の子どもを置いて、教科書・・・教科書の指導書にそってカタチ通りの授業をしていけば時数も要領通りになるし、問題にはなりにくいかと思います。教材研究はしなくても良いのですね?「働かせ方改革」の目玉でしょうか?でもそれで教育が成り立つのかなぁ?
①定型教室では、トニカク型通りに教科書で授業をする。
②ついていけない子どもは別の機会を補償する。
こういうシステムが完成しているなら良いのですけれど、殆どの子どもは別の機会が無い訳です。全国一律の授業を目指すと置いて行かれる子どもが続出すると思います。その分のサポートにかかる人件費を国は出してくれるの?お金を出さないならカリキュラム半減をお願いします。

 

不適切の内容がハッキリすれば問題点も明らかになるのでしょうけれど、記事を読む限りでは、「英語の指導内容が欠落していた」点と「毛筆が殆ど行われなかった」点くらいかなぁ。要領にある指導内容が授業に反映できなかったら教師としては問題です、という流れは納得できます。

毛筆は必修なのか?手段じゃ無いの?と思いましたが、要領に「毛筆で」と書いてあるので、まぁまぁ納得することにします。それでも筆ペンは毛筆だと思いますけれど。毛筆については言いたいこともイッパイあるのですが・・・

記事で目立つのは、校長の管理権限の話ですね。「職員会議が意思決定機関」というのは20世紀から言われてきたことですけれど、職員会議が事後の責任を取るワケじゃあ無いんだよねぇ。でも、私の場合は職員の意思を尊重してくれる校長が多かったように思います。まぁダメなモノはダメなんですけれど、ちゃんと私が分かるレベルで説明してくれる方が殆どでした。バランスの問題なんじゃ無いかなぁ。

管理強化しても、現場の状況次第で上に物言う方であれば良いのです。そう云う校長や教頭の姿も見せてもらってきているので。でも上の意向を伺う管理職ばかりになると、現場の息苦しさが増すでしょうし、オリジナリティは無くなりますよね。勿論、均一化が目的なのでしょうけど、社会は多様化時代ですし、指導要領は「多様化への対応」が大事だとしています。均一化した教育で、多様化した子どもの育成ができると思っている所がスゴいなぁと思うんですけれど・・・