ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

教育を経済で考えてる政府の人たち

教員の残業代に代わる調整手当を増額するという方針が中央教育審議会で話し合われているそうで、それに反対する意見がネットに出ています。

お金と教育、で思い出すのは数年前、退職金がらみで増えた退職教員を非難するネット民のニュースです。政治家の中からも「教育者が金のことで・・・」とか言っていた人がいらっしゃいますけれど、急に制度が変われば何か変えなきゃ生きていけないので仕方ないじゃないですか!と。でも、今の政治家たちは「教育は金で買える」と思っている人ばかりなのでしょう。待遇改善は悪くないのですけれど、根本解決できる訳無いじゃん。出てくる対策が金、金、金・・・政治家と教員を一緒にしないで欲しいわ。

 

中央教育審議会と言えば、コロナ期間に「令和の日本型学校教育」を答申しています。

中央教育審議会 諮問・答申等一覧:文部科学省

リンク先の中教審の一覧ページを見て、あらためて現場の現状と「偉い人たち」との認識の差を感じました。そんなに悪いことを言っている訳ではないとは思うのですけれど、現状を分かっているのでしょうかねぇ?

 

今回、調整手当の増額を検討しているようですけれど、給料の問題ではありません。いや、増額すれば「教員は高い金をもらっている」感が増して数年後には風当たりが強くなるのでしょうねぇ。「増額したんだから働くのが当然」という流れにもなりそうですしねぇ。

肝心の仕事量適正化はどうかといえば、小学校では教科担任制拡大とか、新卒教員への負担減とか・・・ホントに小学校を知っているのかしらん?新卒教員を負担の大きい学級担任ではなく教科担任として持ち授業数も減らすのだそうですけれど、小学校って学級運営がメインじゃないの?児童の生活に寄り添えなくなって、現在よりも児童理解に苦慮する景色が見えるのですけれど、心配のしすぎでしょうか?

 

教員免許更新も中央教育審議会が絡んでいるハズなんだよなぁ。一覧表からその辺りの書類がごっそり抜けているトコロに狡さを感じますけど。

前世紀から既に臨採が足りなくなっている傾向にあったし、度重なるカリキュラムの増加もあって残業が多い状態であったのに免許更新を導入したんだよね。国も文科省中教審も先が見えないと言うより、昔から現場のことが見えていない状態なのだと思いますよ。

令和の日本型学校教育にしても、その中の方向性で「全ての子供たちの知・徳・体を一体的に育むため、これまで日本型学校教育が果たしてきた、①学習機会と学力の保障、②社会の形成者としての全人的な発達・成長の保障、③安全安心な居場所・セーフティネットとしての身体的、精神的な健康の保障を学校教育の本質的な役割として重視し、継承していく」と書いてあるのだけれど、果たしてきたのかな?と思ってしまいます。

数値的には十分果たされているとみているのでしょうけれど、どの数値をどんな風に眺めているのかしらん?100%近くの就学率でしょうか?

不登校はかつて登校拒否と呼ばれて20世紀から存在し、効果的な手を打てないままその数を増やしてきました。それでも学習機会の保障を役割としてだけでも「果たしてきた」と書いてしまえる方たちなのです。

働き方改革に関しては学校や教育委員会に丸投げてしまい、そもそものBLACKの原因である「膨らみすぎたカリキュラム」に手を付けずにやり過ごす・・・これだって「ゆとりの反動」で時数が増加した時に危険視した意見はいくつも見ましたよ?「つめこみではない」と口で言っても、実際に内容が増えればアクティブしながらも憶えることは多くなる訳で・・・

もう少し子どもと現場を良く見て効果的な策を練ってくれないと「免許更新」のような失敗を繰り返すことになります。失策を繰り返して教育現場から人がいなくなっていることを自民党民主党にいた方たちは分かっているのかしらん?

放送大学radiko終了

明日から令和24年度。年度尾の今日はオンラインシンポジウムに参加して意欲喚起。色々考える所が出てきて、やっぱり引き隠っていてはダメだなぁと痛感しているところです。

先週radiko放送大学の撤退記事を読んで残念な気持ちでいっぱい。結構利用していましたから。一日講義を聴くと数千円かかるところを無料で聴けるのは太っ腹でしたね。心理師試験の勉強に役立ったし、在職中も情報取得の大事なルートでした。最後に聴いたのは博物館関連でした。感謝の気持はあるけれど、どちらかと云えば諸行無常といいますか、あ〜いつまでもあると思っちゃいけないんだなぁ〜と。

 

そお言う意味では急ぐべき活動が結構溜まっています。年度変わりで心機一転できるかと云えば、そうは問屋が卸してくれない感じです。まず環境を何とかしよう…と思いつつ、明日は鳥見に行きたいなぁ。

退職直後のやり残しがたくさんあって、荷物や動画の整理を急ぎたいのだけれど機器を修理しながらというのは効率が悪いです。集中力が持続しないのには幼少期から持っている特性なので、そこを自己支援しながら…とは云え、おしまいの日も近づいてくるのでそろそろ気合を入れないと。

カウンセリングにかかっていた20年くらい前から、割に「先がない」とかを真剣に考えてしまうクセがついてしまって、影響が大きそうな一月以上先の予定は入れないように心がけているんですけどね。そういう点であのくらいから学級担任から離れていたので、心的負担は軽くなりましたけど。担任が途中でいなくなるのは影響が大きすぎると思ってましたから。

24年度かぁ。

浜岡原発行かなきゃ。車が楽な場所は車がある内に行っておかないとね。ホントは福島へ行きたいのですけれど、体力に自信がない。いっそ引っ越しちゃうのも考えたのですけれどね。

リニアは完成するんでしょうかねぇ?2027年が延期になったんですよねぇ。以前からリニアに1回は乗りたい…って周囲には言ってますが、正確には横浜で1度乗っているんですねぇ。距離がうんと短いものでしたけれど。ちゃんとしたのに乗りたいなぁ。でもあと10年経っても完成しないんですよねぇ。

あとはりっくんランドかな。

学級担任制がなくなるのかなぁ

職員人事予想の3学期。職員室で同僚と次年度の学年予想をしたり管理職の動きを予想したりはしてましたが、自分の職場以外の動きには無関心で、実際の異動状況を知らないことが多かったなぁと。目の前以外の変化についていけてないので、誰がどこの管理職なのかは知り合い以外は分かりませんでした・・・知り合いでも分からなかったことも度々ありました。久しぶりにお目にかかった方が管理職になっているのを知らなかったり忘れていたりして、まぁまぁ失礼な言葉を発してしまっていた現役時代です。

退職してそこが変わったかといえばそんなことは無く。でも会話する機会もないので失礼になることもなくて被害は減っているかと思います。

人事情報だけは退職してからの方が入ってくるかなぁ。昔から喋るなと言われたことは喋らないタイプでしたが、今は話す機会さえもないので安心して伝えてくるのかも知れません。そういう人事情報を聞いていると、やはり人が足らないんだぁと思います。初任が相当数入りますが、近年若い層の退職も増えているので苦しいと思います。

先日も奨学金についての教員優遇案がニュースになってましたが、「また金かぁ」と思いましたね。経済的な優遇措置で解決するほど学校BLACKの問題は甘くない。金が全てだと思っている人たちが考えているんだろうなぁ。カネも大事ではありますが、それ以外の方が大事でしょう、今の事態は。先も見えていないのだろうなぁ・・・

 

そんな中、西日本で「学年担任」形式の新たな形がスタートするようですね。報道によれば3学級を4人で担任を月ローテーションするとか。金絡みの対策より期待はできるかも知れません。責任が分散するので気持ちが楽になるかなぁ?35人学級だとしても最大105人。1年に100人相手かぁ・・・。学級編成は既存通りで担任を一ヶ月交替にするのかなぁ?一ヶ月かぁ・・・。子どもサイドで考えると、合わない先生がいても一ヶ月我慢すると変わるのは悪くないかもしれません。

色々考えると利点も多そうな気もします。教員の負荷軽減、教育の質の均等化、対児童コミュニケーション確保などなど。

でも私にはちょっと無理かなぁ。100人を相手に1年って私のキャパを越えてる。1ヶ月ごとに対象が変わるのも対応が難しいです。せめて半年以上じっくりと向き合って集団づくりに取り組みたいです。私は時間をかけないと子どもとコミュニケーションとれないし。利点を活かせないタイプですな。

4人担任が「特徴は違えどプロ集団」というなら問題は発生しづらいと思いますが、一般的な学校で取り組めば、普通に力量差が仕事量差につながって、チーム内不和とか、力量の高い教員から倒れていくとか起こりそうですねぇ。

「学年経営」は今までもありましたが、これまで以上に力関係で運営方針が決まりそうな気がします。メンバーみんなが同じ道を考えている訳じゃないので、声の大きな人が勝つみたいな事が起きなきゃ良いのですが・・・経験の長い人が主導権を握ると経験の浅い人の思考が反映されにくくなって、余計に教員離れになるかも知れません(T_T)

「みんな同じに」って強要する学年主任さんをよく見ましたが、そうやって個々の思考を封じることで試行場面がなくなり、日々の教育実践に新鮮味がなくなり、教材研究力が低下すると共に先々新しい教育を生む力も弱くなるのでしょう。受容感の高い経験者が多ければ良いのですけれど

児童観察

先月に知能検査をやらせてもらう機会があって今日はフィードバックでした。

今までは児童観察の後、保護者か担任からの聞き取りを行ってから検査実施、という流れでしたが今回は検査のみでした。それだけに検査中の観察が全力状態だったのですが、その甲斐あってか現状とのズレのない面談ができてホッとしました。

検査時間90分ちょい。この時間で検査に関わることやそうでないことを観察して記録していくのですが、これが結構大変です。

 

今は観察のポイントが大まかに頭の中にあるので、まぁまぁ何とかなってますが、元来私は観察が苦手な方だと思うんです。定型級担任の頃にそういうポイントが定着していたら運営の仕方が違っていただろうなぁと振り返ったりします。実際、結構見えていなかったと思いますし、若手の頃から度々指摘されていました。

それでも学級担任は毎日7時間位は同じ空間で一緒に生活するので、看取るチャンスも多く、長いスパンで考えながらアセスメントをすることができます。でも検査のみで観察となると90分。対象が一人に絞られているものの、難易度高めだなぁとあらためて思いました。

 

普段通っている病院の先生が書いていたコラムに「患者をちゃんとみる」という言葉が出てきます。これが意外にできていない、とも書いてありました。これって教員も同じだなぁと思いました。「子どもをちゃんとみる」はどこまでやれれば職務を果たしていることになるのでしょうか。

そこの病院はちょっと例外的なのですが、多くの病院では「短い診察時間で長い待機時間」というのが普通です。そう、診察時間は普通短いんですね。

診断時の児童観察時間はだいたい30分〜1時間といった所が多いように聞いています。関係者への聞き取りも付添人のみに行う病院と学校から家庭まで行う病院があったりして情報収集はマチマチな様子です。そりゃあ観察に決まりはありませんけれど…

 

毎回WISC検査のフィードバックでは検査結果について、「この日この時この場所での様子です」ということを伝えます。だから他の場面での情報が欲しいわけですし、今日なんかは現況を聞きながら答え合わせをしているような感覚でした。

今まで、短時間の看取りのみで診断や断定をする「先生」たちと何度か出会いました。それで保護者が困惑していたり、私が困惑していたり…ホント「先生」って信用できないんだから(T_T)

 

学校のBLACKが変わらないのは誰のせい?

教員の夏休みを増やす自治体があると聞きました。

労働時間についてだいぶ前から騒がれ続けていて、遅くまで学校に残る人数は減ったように思います。でも残っていないだけで持ち帰りをしている方が多いと聞いています。そりゃ勤務時間を減らしただけで仕事量が減らなければ当然です。

 

時間を制限するなら活動量を減らすのが普通です。

野球の試合に時間制限ができたのはいつからだったでしょう?はっきりとは憶えていませんが、延長したとしても「時間切れ引き分け」とか「ルールにより○○の勝ち」みたいな感じになっているんじゃなかったかしらん?昔は午前0時を過ぎても試合していた記憶がありますけど・・・

ちょっとズレた例えですけど、学校の「働き方改革」の流れは、「時間制限あるけど勝負つくまで試合してね」というノリです。「働き方改革」としての現場の工夫は最初から限界が見えていましたし、授業時間が削れないために教材研究・児童理解をはじめ、家庭連携・地域連携・校内連携などに必要な時間がとれているようには思えないんですけど。

 

どうして偉い人たちは表面的な策しか講じないのでしょう?「残業時間が多いのが問題だから休みを増やす」って何も考えていませんよね?給料を増やす議論もどこかズレを感じます。昔、退職金が減るからと云う理由で早期退職をした教員に対して、批判した政治家やマスコミがイッパイいました。で、今更金ですか?平成時代に給料下がりましたけど、それで辞めた人はいなかったけどなぁ。

断言しちゃいますけど、確かに学校に「働き方」の工夫は必要ですが、「働かせ方」を改善してくれないとBLACKな環境を改善することなんてできません。学校にどんな役割を持たせるのかを明確にして、せめて9時間労働で回せる仕事量にしてほしいなぁと思います。

教室で思ったこと

本日は学校でお手伝い。久しぶりすぎてよく眠れず、頭が寝ている状態でした。まぁ今や学校は私にとって非日常ですから緊張しても仕方がないです。

長い期間をかけて何度かお邪魔させてもらっている支援級なので緊張したのは自分でも意外でした。体型のせいか、子どもたちが名前を覚えてくれているのは有難いことです。「100kg先生で〜す」と言っているのに言い難い本名で呼んでくれる子もいます。陰で担任の先生が刷り込んでいるのでしょうかね?

学校へ行くと当然ながら子どもたちの様子を見ます。観察しながら「教育って?」とか「本当に必要な学習内容は…」とか「学ぶってどういうこと?」なんて考えています。こんな教材あったら良いな、的な思いつきも現場にいると出やすいです。

 

さて公認心理師の試験勉強をしている中で、どの業種、領域でもチームを組んで協力して進めていく話がありました。学校も「チーム学校」という言葉が発せられてから時が経っています。現代の課題は複雑化しているので、チームで取り組んだ方が良いことは分かります。

チームで仕事をするには共通認識が必要になります。共通理解していれば尚よろしいかと思います。そうするには時間が必要で…果たして現状でそういう時間が取れるのでしょうかね?十分ではないように見えるのですけれど。

昨今「多様化に対応する教育が必要だ」との声が大きくなっています。現場レベルでも増々工夫が求められるのでしょう。じゃあ、ここに関係者の共通認識はなくて大丈夫なのでしょうか?

 

「教師は5者たれ」と前世紀に言われましたが、今世紀はこれをチームで乗り越えようということなのでしょう。一人ひとりが「5者」…つまり担任が学習面だけでなく生活面、心理面を個々と集団の2つの視点から専門性を持って育てていくのが20世紀スタイルなわけで、今世紀はこれらをチームとして分業して行くスタイル?

研修を通して専門性を広げつつ深めつつ、ってイメージでしたが、チーム化して教師は授業に特化させようということなのでしょうかね?行政は縦割りが好きみたいですけれど、小学校教員は「5者」の考え方が必要だと思うんです。

働き方改革」で専科制が小学校にも導入されましたが、働き方は大きく変わったのでしょうか?あまりそういう話は周囲から聞かないのですけれど。先行実施していた研究校の報告には良いことばかりが羅列されていましたが、研究校なんてそんなもんです。数多くの研究発表を見てきましたが、仮設に対して「失敗でした」という発表は一つもありません。目標設定の仕方がうまいということもあるのですが、失敗を発表するのは外聞が悪いというのもあると思います。

仮に専科制が働き方を改善するものだとしても、私は大いに危惧してます。

卒業した子やその保護者と面談をする機会が何度もありましたが、中学校への不満のトップは「話を聞いてくれない」です。そりゃあそうでしょうね。担任している学級にいる時間は激減して、教える子の人数は何倍にも膨れ上がるわけです。授業やっているならその時間は責任持って生徒観察や対応しますよね?一人にかける時間は減るわけです。また「みんなで教えてます」は責任感も薄れるのかもしれません。

関わり方が大きく変わるんですよね。これが生徒と児童の違いからくるものだったらまだ良いのですが、話を聞いていると専科制が原因であるようにしか思えないのです。

逆に中学校が基本担任制をやるのはだめでしょうか?教科書ガイドを見ながらやる程度の授業なら誰でもできるんじゃないかしらん?国としては中学までの内容が「一般常識レベル」という認識なんでしょう?それってつまり、大人の人は中学授業を受け持てるってことになりますよねぇ?まして教員なら…

勿論、卒業生でも在校生であっても専科制に救われた子もいます。担任に頼れないケースで専科教員を頼ることができて課題改善に進めた例が少数ありました。

 

話を聞くってことをやるだけでも、今のカリキュラムを減らしてほしいと思うのですが、文科省も言っている「チーム学校」を進めるためには時間が必要で、カリキュラムは減らさないといけません。

働き方改革で「無駄な会議を減らしましょう」ってやるじゃないですか。会議が減ると共通認識が薄れます。もうそれだけでチームが機能しない。

やっぱり学校にゆとりは必要だよなぁ、と一日学校にいて思ったのでした。

教師のゆとりと仕事マニュアル

久しぶりのオンライン勉強会でした。隠居して5年が経ち、学校とも距離が出ているので、今の様子を知る良い機会になっています。何より過去の自分の反省になりますし、新たな視点で見直すこともできて面白く参加させてもらっています。

今日の話の中で出てきた「やらなくても良い仕事」に関するやりとりが長年の引っ掛かりを解いてくれた感じがしました。

 

教員の仕事にもある意味仕事マニュアルのようなものが存在しています。教科書の指導書なんか最たるものですし、職員会議などで事務仕事や行事運営について大なり小なりの説明はあります。

御上の云った通りに仕事をしていれば、それだけできちんと労働しているわけですけれど、それ以上の?それ以外の?仕事に対する評価って昔から不当になることが多い感じがしてました。

足並みをそろえたがる学年主任とか先輩教師が結構いたなぁ。幸いなことにそういう方と同じチームになることは少なかったのですが、違うチームの先輩にも言われてましたからね。表立って反発する性格ではなかったので、こそこそとやれることをやっていたこともありましたが…。とにかく同じように同じように…って日教組の組合員のくせに自民党のようなことを言うのです。こんなんで子どもの多様性に対応できるわけがない…と今振り返って思ったりするのですけれどね。

教科書オンリーで授業を進めても怒られることはないのですけれど、「わかりやすい授業」とか「この学級の実情に合わせた教材」とか考えるのが教師だと思うんですけど、もはや古い考えなんでしょうかね。

昨今、教員のブラック職問題で労働時間が問題になっていますが、時間をかけたい教師はかければいいじゃん、と思うのです。単純に労働時間を切るのではなくて、そういう教員が潰れないようなシステムが学校には必要なんじゃないかなぁ。

それにはカリキュラムの減量が…と同じ主張が繰り返されるのですけれど。

若い頃に残業していたら「早く帰りなさい。仕事が遅いだけじゃないの?全く。遅くまで仕事しているのは偉いんじゃないのよ!」と先輩教師に言われたことがあります。まぁ確かに仕事も遅かったですけれど、やりたいことがたくさんあるから残る時間が多くなるって感じでしたので放っておいてほしかったなぁ。

後から聞いた話では、遅くまで残っている教師の評価が保護者の中で高かったから発言につながったとか。嫌な話です。こういう経験を経て合わせることが嫌いな人格が形作られたのではないだろーか?

やらなくてもよい仕事、と聞いて、そういうことばかりやっていたような印象です。でもそのくらいのゆとりがないと人間育成なんてできないんじゃないかしらん?世紀末にでさえそう感じていたので、今はもっと子どもにも教員にもゆとりが必要だと思うんですけど、どうなんだろう?