ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

学校のBLACKが変わらないのは誰のせい?

教員の夏休みを増やす自治体があると聞きました。

労働時間についてだいぶ前から騒がれ続けていて、遅くまで学校に残る人数は減ったように思います。でも残っていないだけで持ち帰りをしている方が多いと聞いています。そりゃ勤務時間を減らしただけで仕事量が減らなければ当然です。

 

時間を制限するなら活動量を減らすのが普通です。

野球の試合に時間制限ができたのはいつからだったでしょう?はっきりとは憶えていませんが、延長したとしても「時間切れ引き分け」とか「ルールにより○○の勝ち」みたいな感じになっているんじゃなかったかしらん?昔は午前0時を過ぎても試合していた記憶がありますけど・・・

ちょっとズレた例えですけど、学校の「働き方改革」の流れは、「時間制限あるけど勝負つくまで試合してね」というノリです。「働き方改革」としての現場の工夫は最初から限界が見えていましたし、授業時間が削れないために教材研究・児童理解をはじめ、家庭連携・地域連携・校内連携などに必要な時間がとれているようには思えないんですけど。

 

どうして偉い人たちは表面的な策しか講じないのでしょう?「残業時間が多いのが問題だから休みを増やす」って何も考えていませんよね?給料を増やす議論もどこかズレを感じます。昔、退職金が減るからと云う理由で早期退職をした教員に対して、批判した政治家やマスコミがイッパイいました。で、今更金ですか?平成時代に給料下がりましたけど、それで辞めた人はいなかったけどなぁ。

断言しちゃいますけど、確かに学校に「働き方」の工夫は必要ですが、「働かせ方」を改善してくれないとBLACKな環境を改善することなんてできません。学校にどんな役割を持たせるのかを明確にして、せめて9時間労働で回せる仕事量にしてほしいなぁと思います。

教室で思ったこと

本日は学校でお手伝い。久しぶりすぎてよく眠れず、頭が寝ている状態でした。まぁ今や学校は私にとって非日常ですから緊張しても仕方がないです。

長い期間をかけて何度かお邪魔させてもらっている支援級なので緊張したのは自分でも意外でした。体型のせいか、子どもたちが名前を覚えてくれているのは有難いことです。「100kg先生で〜す」と言っているのに言い難い本名で呼んでくれる子もいます。陰で担任の先生が刷り込んでいるのでしょうかね?

学校へ行くと当然ながら子どもたちの様子を見ます。観察しながら「教育って?」とか「本当に必要な学習内容は…」とか「学ぶってどういうこと?」なんて考えています。こんな教材あったら良いな、的な思いつきも現場にいると出やすいです。

 

さて公認心理師の試験勉強をしている中で、どの業種、領域でもチームを組んで協力して進めていく話がありました。学校も「チーム学校」という言葉が発せられてから時が経っています。現代の課題は複雑化しているので、チームで取り組んだ方が良いことは分かります。

チームで仕事をするには共通認識が必要になります。共通理解していれば尚よろしいかと思います。そうするには時間が必要で…果たして現状でそういう時間が取れるのでしょうかね?十分ではないように見えるのですけれど。

昨今「多様化に対応する教育が必要だ」との声が大きくなっています。現場レベルでも増々工夫が求められるのでしょう。じゃあ、ここに関係者の共通認識はなくて大丈夫なのでしょうか?

 

「教師は5者たれ」と前世紀に言われましたが、今世紀はこれをチームで乗り越えようということなのでしょう。一人ひとりが「5者」…つまり担任が学習面だけでなく生活面、心理面を個々と集団の2つの視点から専門性を持って育てていくのが20世紀スタイルなわけで、今世紀はこれらをチームとして分業して行くスタイル?

研修を通して専門性を広げつつ深めつつ、ってイメージでしたが、チーム化して教師は授業に特化させようということなのでしょうかね?行政は縦割りが好きみたいですけれど、小学校教員は「5者」の考え方が必要だと思うんです。

働き方改革」で専科制が小学校にも導入されましたが、働き方は大きく変わったのでしょうか?あまりそういう話は周囲から聞かないのですけれど。先行実施していた研究校の報告には良いことばかりが羅列されていましたが、研究校なんてそんなもんです。数多くの研究発表を見てきましたが、仮設に対して「失敗でした」という発表は一つもありません。目標設定の仕方がうまいということもあるのですが、失敗を発表するのは外聞が悪いというのもあると思います。

仮に専科制が働き方を改善するものだとしても、私は大いに危惧してます。

卒業した子やその保護者と面談をする機会が何度もありましたが、中学校への不満のトップは「話を聞いてくれない」です。そりゃあそうでしょうね。担任している学級にいる時間は激減して、教える子の人数は何倍にも膨れ上がるわけです。授業やっているならその時間は責任持って生徒観察や対応しますよね?一人にかける時間は減るわけです。また「みんなで教えてます」は責任感も薄れるのかもしれません。

関わり方が大きく変わるんですよね。これが生徒と児童の違いからくるものだったらまだ良いのですが、話を聞いていると専科制が原因であるようにしか思えないのです。

逆に中学校が基本担任制をやるのはだめでしょうか?教科書ガイドを見ながらやる程度の授業なら誰でもできるんじゃないかしらん?国としては中学までの内容が「一般常識レベル」という認識なんでしょう?それってつまり、大人の人は中学授業を受け持てるってことになりますよねぇ?まして教員なら…

勿論、卒業生でも在校生であっても専科制に救われた子もいます。担任に頼れないケースで専科教員を頼ることができて課題改善に進めた例が少数ありました。

 

話を聞くってことをやるだけでも、今のカリキュラムを減らしてほしいと思うのですが、文科省も言っている「チーム学校」を進めるためには時間が必要で、カリキュラムは減らさないといけません。

働き方改革で「無駄な会議を減らしましょう」ってやるじゃないですか。会議が減ると共通認識が薄れます。もうそれだけでチームが機能しない。

やっぱり学校にゆとりは必要だよなぁ、と一日学校にいて思ったのでした。

教師のゆとりと仕事マニュアル

久しぶりのオンライン勉強会でした。隠居して5年が経ち、学校とも距離が出ているので、今の様子を知る良い機会になっています。何より過去の自分の反省になりますし、新たな視点で見直すこともできて面白く参加させてもらっています。

今日の話の中で出てきた「やらなくても良い仕事」に関するやりとりが長年の引っ掛かりを解いてくれた感じがしました。

 

教員の仕事にもある意味仕事マニュアルのようなものが存在しています。教科書の指導書なんか最たるものですし、職員会議などで事務仕事や行事運営について大なり小なりの説明はあります。

御上の云った通りに仕事をしていれば、それだけできちんと労働しているわけですけれど、それ以上の?それ以外の?仕事に対する評価って昔から不当になることが多い感じがしてました。

足並みをそろえたがる学年主任とか先輩教師が結構いたなぁ。幸いなことにそういう方と同じチームになることは少なかったのですが、違うチームの先輩にも言われてましたからね。表立って反発する性格ではなかったので、こそこそとやれることをやっていたこともありましたが…。とにかく同じように同じように…って日教組の組合員のくせに自民党のようなことを言うのです。こんなんで子どもの多様性に対応できるわけがない…と今振り返って思ったりするのですけれどね。

教科書オンリーで授業を進めても怒られることはないのですけれど、「わかりやすい授業」とか「この学級の実情に合わせた教材」とか考えるのが教師だと思うんですけど、もはや古い考えなんでしょうかね。

昨今、教員のブラック職問題で労働時間が問題になっていますが、時間をかけたい教師はかければいいじゃん、と思うのです。単純に労働時間を切るのではなくて、そういう教員が潰れないようなシステムが学校には必要なんじゃないかなぁ。

それにはカリキュラムの減量が…と同じ主張が繰り返されるのですけれど。

若い頃に残業していたら「早く帰りなさい。仕事が遅いだけじゃないの?全く。遅くまで仕事しているのは偉いんじゃないのよ!」と先輩教師に言われたことがあります。まぁ確かに仕事も遅かったですけれど、やりたいことがたくさんあるから残る時間が多くなるって感じでしたので放っておいてほしかったなぁ。

後から聞いた話では、遅くまで残っている教師の評価が保護者の中で高かったから発言につながったとか。嫌な話です。こういう経験を経て合わせることが嫌いな人格が形作られたのではないだろーか?

やらなくてもよい仕事、と聞いて、そういうことばかりやっていたような印象です。でもそのくらいのゆとりがないと人間育成なんてできないんじゃないかしらん?世紀末にでさえそう感じていたので、今はもっと子どもにも教員にもゆとりが必要だと思うんですけど、どうなんだろう?

お片付けの続き デジる

持ち物の中で多いものは紙類です。書籍とプリント類と合わせて積んだら教室2階分くらいにはなるでしょう。次に多いのが音楽系でしょうか。楽器やらレコードやらCDやらが場所をとっています。

で、その次が衣服ですね。よほどビリビリでないと服を捨てることがなかったですし、体型が変わると服は買わなきゃならないし…スーツを下取りに出して新たに購入したことはありますけれど、他は手放す機会がなかったです。

去年辺りからは「売れるものは売ってしまえ」モードになっていますが、先日ついに服を10着程度選んで近所のO系店へ持っていってみました。結構新しい服も入っていたのに結果は50円弱。有名ブランド品なんてありませんが、購入時の金額を合わせると5万円は超えていたので、1厘ってことですね。

後からネットで色々見てみると、金額を聞いていくつか回って高い所で売るのが良いそうです。面倒だなぁ。言われてみれば別系統のRや地元のSなんてお店もあったのに。次があれば回ってみたいと思いますが、どれほど違うのでしょうね。

その1厘ショップには本やCDをよく持ち込んでいましたが、5分以上の値は付きます。そう考えるとスーツ販売店の下取り制度が神様に思えてきます。

 

本日CDを並べてみると500枚くらいありました。さて、不要なCDは売ってしまいたいのですが…。ここで「不要基準」が定まらないと作業が進みません。

「データ化してデジっちゃえばいいじゃん」と思うのですが、単純にそういうものでもなく思い入れがあったりします。そもそもウォークマン以降の携帯再生装置を使ったことがありません。「i-phoneに入れてしまえば聴けるよ」とのアドバイスはいただきましたが行動化できずに現在に至ってます。

とりあえず歌手別に分けて明日考えることにします。

片付けが苦手な背景はADHD?ASD?

旧暦1月7日に七草探しに行こうと思っていたのに、すっかり忘れて明日から来月頭までは雨水。冬は終わりですよ~と云う内容が並びます。でも予報では寒の戻りがアリそうですけどねぇ。

さて、「部屋の中が散らかっているのを気にしながらも片付かない」。こういう文は発達障害のチェック項目に出てきますが、現在のウチがその様な感じになっています。3ヶ月くらい前は結構片付いていたのですが、師走に在職中の荷物を片付けようと中身を広げ始めたのが悲劇の始まりでした。

モトモト整頓維持が苦手な子どもであったので、油断すると特性がニョキニョキと表面化してしまいます。学生時代には「普通は客が来る前にきれいになるモノだけど、あなたの部屋は客が来るときれいになるのね」と言われる程度には酷かったです。度々訪れてくれた後輩さんには「あなたのは片付けでなく移動だよ」と指摘されたこともありまして、片付かない背景も推測できるかと思います。

就職してモノが増え、部屋が狭くなり(学生時代は広くて安かったのです)モノが堆積する状態でした。学生ほど暇じゃないので片付ける時間も少なくなり、床の色を忘れるくらいの散らかり方でした。教室は「きちんと」していた訳ではありませんが、マシだったかなぁ(机の上を除く)。共用エリアという意識を持つと「片付けなくちゃ」となる特性のようです。片付けに関しての職場での失敗談は多々あるのですが、ひとまず置いておいて・・・

 

昨日今日と動画配信を視ながら片付けに取り組んだのですが、あまり進みません。自己観察というか、行動の振り返りをすると進まないパターンがいくつかあって、

① 動画に気をとられる
② 発掘したモノに気をとられる
③ 他の片付けに気をとられる
④ 収納方法の試行錯誤
⑤ 片付けているモノの仲間捜し

気をとられている①②③はADHD気質かなぁと。④⑤についてはASD気質かなぁと。この様に分析してみました。

それで思ったのですが、今まで「散らかっている」背景の特性は転導性に関わると思っていたのですが、こだわり特性に由来して片付かなくなることもあったのかぁと。なんて間抜けな・・・ちょっと観察の仕方を考え直さないと。

 

そう思って自分が運営する「まとめサイト」で「片付け」に関する記事を探しながらサイトチェックをする時間になりました。部屋は散らかったままです・・・(-_-)

まとめサイトはコチラ

https://hyougenkei.conohawing.com/support/support.html

春一番

年によって印象は違うのですが、今年のは大したことないや、と夕方までは思っていたのですが、マンションが揺れていますの…

地震が来たのか、自分の目眩なのか、これを客観的に捉えることができる自己支援を自分の部屋に施しております。お守りやらキャラクターやらが揺れやすいようにぶら下がっておりますので、震度1でもどれかは揺れます。

かなり風速が強いのかと思ってネットを見ると5m。まぁ強くないことはないけど…それよりこれは西風じゃん、というところに驚きました。

夏は太田裕美さんの「南風」でしょう。で、冬は堺正章さんの「北風小僧の寒太郎」なので北風でしょう。ゼフュロスの歌が出てきませんが、西風は秋のイメージだったのですがね。

もちろん「てーきあつ」と「こーきあつ」の位置で季節に関係なく風向きは変わるものなのです…と教えたし。

でも、「春一番」ですよ。春は東風でしょう?東風吹かば〜って。私としては天神さんより先にさだまさしさんの「飛梅」が出てきてしまうのですけれど。春の一番がどうして西から吹くのさ?そーです、分かっています、気圧配置ですよね。でもなんか納得できないなぁ。

いずれにしても春、ですけどね。

給料増やすよりカリキュラムを減らして

少し前に教員の特別手当を増やす記事が出てましたが、今度は給料自体の見直しもするような記事が出てました。これで教育界の人的資源確保が図れると思っているならホントに現場を分かってないんだなぁと思います。つくづく残念です。

以前、退職金で損をするのを避けるために早期退職する話がネットで話題になっていました。「教育者が金で…」みたいな批判的コメントがたくさん見られました。だから給料増やせば人は集まる?そんなことはないと思いますよ。

残業代をきっちりもらえていたら、給料倍近く行ってたなぁとは思います。でも、それによって縛られる時間や仕事内容のことを考えると、調整型の方が融通がきいていて良いと思うんです。まぁ私も古い人間になってしまったので、そう思うのかもしれませんけれど。

保護者相談の時間は今どうしているんでしょう?私が現役のときには保護者の仕事終わりに合わせた時間設定をすることもあったりして、退出時刻のことなんて後回しで考えてましたけれど。そこはバッサリ切ってしまうんですかね?

家庭訪問が無くなった辺りから保護者の顔が更に見えなくなっているように感じています。学校での面談に参加できない保護者は少数ではありますが、保護者が面談のためにどのように算段をつけているかを考える教員も少数ではないかな。

 

授業の構想を練る、なんて時間制限してほしくないと個人的には思うわけです。職場で考えるよりも地域に出てフラフラしていたほうがアイディアがでるとか…

先々「残業代が出るのだから〇〇の仕事を明日までにやっておいて」なんて命令も管理職から出るんじゃないかなぁ。

給料2倍になったとしても仕事量は変わらないのですから、病んで辞めていく人数は変わらないでしょう。金目的で割り切れる人は倒れることは無さそうですけれど、縦割り行政のような学校システム、学級運営になりそうですね。

終身雇用の時代ではないのですから、給料増えて、お金目的で教員になったとして、お金を貯めたら早期退職しちゃうのではないでしょうかね?結局、教育書として頼りになる人は端的に書くと「金より仕事」「金より子ども」思想の人になりませんか?

「金じゃなくて仕事」という教員が病まずに働き続けられる環境、これこそが子どもたちのためになると確信しております!

どこかの大学の先生も発信していましたけれど、「午前中で授業終了」くらいの勢いで学習量を設定するのが良いと思います。個人的には妥協して週25時間。国算理社生総合は午前に、午後を中心に実技系の音図家体と英語とか?低学年以外の音楽廃止とか。言いたいことは山ほどありますが、学習内容の見直しが急務でしょう。

そもそも受験を中心に据えた学習が問題だっていうのは、昭和の時代から言われているのに、その視点での変化ができなかったのは教育行政の一番の失敗じゃないかと思っています。