凹凹MEMO

前向きでないかもしれませんが、後ろ向きになりすぎない程度の綴方・・・要するにぼやきです

「要するに」なんなの?

できるだけ短い文で要点を伝えることが、指示を出す時のポイントです。余計な話をしないのが良いのですが、難しいですね。

 

長々と説明した後に「つまり」「要するに」などの言葉を使って説明が要約された文章が続くなんてシーンに思い当たりがあるのは私だけではないと思うのですけど…

その長々とした説明に意味があるのかどうか。意味があるならまだしも、意味が無いなら「要するに」の後だけで良いのですがね。これが難しい(-。-;

 

テレビやラジオで喋っている人は、「要するに」って良く使ってます。でも、その言葉の後に長々と話が続く人が多いのが気になります。ちっとも要約できてないじゃん!

 

「だから」「そして」「次に」「具体的には」なんていう言葉と間違えている人が多いんじゃないかしら?

要約する事自体が苦手な人もいるかもしれないですね。

政治家やコメンテーターなんて、伝えることが大事な人たちだと思うのですけど、あまり言葉を大事にして無いのかな?

 

こういう方たちの喋り方を参考にして、普段の指示の出し方を考えることにしましょう。

子どもに分かるように

今日は有明でセミナーを受けています。

午前の講師は湯汲先生でした。著書には毎度お世話になっております(^O^)/

書名を見て、気になったとか、そこで悩んでいますとか、そうやって部屋に本が増えていくのですが、湯汲先生の本が結構ありまして、前から受講したいと思っていたのでした。

 

理由の話が一番怖かったかしらん。3、4歳の頃に「なんで〇〇なの⁇」と何かにつけてシツコく理由を聞いて来るのを丁寧に対応しとかないと、学童期や青年期に影響するとか。ヤバイですね〜。

 

子どもが分かるように話すポイントも納得の話でした。大人は抽象語が多くて話が長くて…とか。思い切り反省ですね。

 

二重否定は子どもに分かりにくいという話もありました。そんなに使わないと思ったのですがねぇ、

「〇〇しないと〇〇しません」

あー、使います使います f^_^;

 

普段から力で抑えつける家庭の話をよく聞きますし、その影響については知られていますが、乱暴な言語環境というだけで、結構影響が大きいのですねぇ。

 

沢山反省。

困り感を考える

こんな例をよく出します。

 

視力には1.0という基準が学校にはあります。これを下回れば目が悪いとなるわけで、再検査したり眼科を勧めたりするわけですが、座席が前なら0.7でも困らないわけです。座席配置にもよりますが、後ろの方だと1.0でも困ることがあります。視力に関しては、30年前から配慮するのが普通でした。少なくとも私と私の周りはやっていました。

「目が悪い」はどこで線を引いたら良いでしょう?相対的にAさんとBさんを比べて「良い」「悪い」ということはできますが、数字だけで考えるのはどうかと思うわけです。場合によっては、0.7より1.0の方が困ったりしているわけです。

 

認知の凸凹も同じように考えてもらいたいのですわ。確かに数字は目安になりますが、数字で決めつけないで欲しいのね。あと、視力並みに配慮を考えて欲しいのね。

 

 

 

学力テスト

「教育に競争原理」という流れが強くなっていくように思います。政治家は教育に一体何を求めているのでしょう?

 

「テストの平均点を下回ったら責任をとらせる。」これはアリですかね?テストの結果、でてきた順位だけを見て責任とらせるならお馬鹿でしょう。その理屈を全国でやると、半数はOUTになります。順位なんか持ち出さず、絶対評価でしょう、ここは。学習の定着度がどのくらいあって、それが十分なのか不十分なのかっていうことなんじゃないのかしら?

 

責任の所在はどこ?という問題だってあると思いますよ。学校だけが教育しているわけじゃないもの。「早寝早起き朝ご飯」に見られるように、生活習慣が学習に大きく影響していることは間違いはなく、幼少期にベースが作られずに学校に行くことになった子どもは、それだけでハンディを負うことになる。これは親の責任?社会構造の問題?

 

家庭用ゲームが子どもの成長に影響しているのもどうなの?テレビだってそうだよなぁ。現実に「番組を視たいから」という理由でやるべきことを後回しにするくらいの影響があるのだから。そういう責任をテレビや政治が言っているのは聞いたことないかなぁ。

 

学校が教科指導をしているのだから、その責任はあるのは当たり前で…でも、学校と言ったときに、その運営母体の責任もあるでしょう。

 

この四半世紀、色々な企画を学校で展開させてきた行政ですが、「金は掛けない、人も足さない」方針を貫いています。立派なことを提案して、現場の工夫に寄りかかってきたわけですが、多くの教師は昔から暇ではないので、やることが増えるたびに質が下がるのが普通でしょ?そう考えれば、現場はずっと頑張ってきたわけで…「休みは書類上だけ」という人もいるくらいです。世界で一番忙しい教師は日本と言われるのはよくわかります。

 

金も人も掛けずに新たな企画を通すなら、何かを削らなくてはなりません。それをせずに四半世紀。

まともに教材研究さえできない中で新しい教師が増えているという現状。

家庭教育、地域教育、教育行政の低迷に比べれば、学校教育なんて、まだ踏ん張れている方だと思うぞ。

 

見えないものは分からない2

 

教える人って常にアンテナを張ることが大事なのでしょう。

授業の仕方はこれでいいのか?とか、子どもは理解できたか?とか、そういう事を考えている教員は会話していて安心感が感じられます。教育相談をしていると、保護者の不安の背景にこの辺りの欠如があるんじゃないかなぁ?と感じられる事がちょこちょこあります。

 

真実どうか分からなくても、本人的に巧くいった実践があったとします。まぁ、巧くいったと思っていれば、次のクラスに活かすのが普通ですわ。

でも「活かす」のであって、「なぞる」んじゃダメなわけです。だって構成メンバー違うもの。

大部分の生徒が無理すれば付いていける状態だと、教える方も「これでいいんだ」と実践に自信をつけてしまうわけです。「これでいいんだ」と思うとアンテナを張らなくなるんじゃないかしら?

で、支援の相談に来た保護者に根拠なく「大丈夫です」と言えてしまったりしているのではないかしらん・・・ふぅ。

 

 

このような根拠の弱い自信の強い先生(ややこしいなぁ)が大丈夫の根拠としているのはテストかなぁ?あとは授業の小課題?点数だけでなく、個の誤答分析までしていれば見えることは増えますが…

そもそも塾に行っている子も多いし、教科書なぞっている授業では、良い実践かどうか分からないですよねぇ。指導によってつけた力なのか、他でつけた力に乗っかった指導なのか・・・?

その辺りの分析がないまま自信を持たれてもなぁ。不安を感じている保護者に向かって「大丈夫」としか言えずに、その根拠が示せないのも頷けてしまいます。

 

授業は見えないものが多い仕事なだと思っています。自信を持つには余程の力がないと・・・と思うのですがね。

老若男女に関係なく、すごいなぁと感じる授業者は、今日の実践に満足しないですよね。反省して次の工夫を考えて、という事を当たり前のようにやっています。

見えないところを見ようとしているように感じます。信用とか安心感とかはそういうところから生まれるのでしょうね。

 

見えないものは分からないって、ASDの特性として出てくるフレーズでありますが、普通に体験することが多いのではないかしら?

どんどん便利になっていきますね

「便利」って「手間がかからない」っていう事だと思ってる。

 

 「手」と「間」なんですね。「手」は力や技巧、「間」は時間でしょう。

こういうことの負担が軽くなるっていうのが「便利」って事だと思うわけです。

 

手作りにはナニガシカの器用さが必要で、製作時間もかかる。

それが「ボタンひとつ押す」になる事で、複雑な指の動きは必要なくなり、体力と時間を使うことなく効率的に作業することが出来る。

余計なことに時間をかけたくないから、生活はどんどん便利なモノであふれていくっていう流れだと思う。

 

生産力向上のために、工場は手工業からオートメーション化してきたんですよね。伝統工芸品は手作業が多いと思います。技が必要な工芸品が多いというイメージがあります。後継者不足で「技が失われる」という台詞はよく聞くのではないでしょうかね?

 

さて、生活の上でも同じ事が起こっていると私は考えるのですが、別に困っていないために、失われた技について、真剣に分析する人は多くないような・・・

 

紙工作作家みずたにいさお氏がずーっと前から言っていたのは、

「生活の中で手首をひねる動作がなくなった」

ということでした。水道の蛇口、ドアのノブなどの例を聴くと、確かにそうだなぁと。

遊びが画面型ゲームになり、コントローラーを動かすだけの動作に。

電話は携帯やスマホに。

調理機器も大変便利になりまして・・・。

色々な場面で指先のみの動きに変化してきたのですね。

 

時間を掛けなくて済むということは、待つ場面が減ることですねぇ。普段から待たないから、待てない人が増えました。もちろん子どもにも影響してます。かつて待つ生活を経験してきた人でさえ、今の生活に慣れているのではないかしらん。

 

さて、どんどん便利になっていく中で、人はどう変わるのでしょうかね?不器用で、衝動性が高い人が増えることは予想できますが、それだけで済むのでしょうか?

放っておいても視覚支援が広がるんじゃないかと思ってしまいました

落語家の桂歌丸さんの記事がyahooニュースに載っておりまして、

歌丸「裸でお盆の何が芸か」

とトップページには書かれておりまして、中身を読むと、日本語を使った芸が大事ってことかしら?言葉を使う芸が本筋みたいな?

落語って教養がないと笑えない話芸だって先輩が言ってました。私は寄席に行ったことくらいはありますが、それほど聴いているわけでは無いので詳しくないのです。歴史的な事件や和歌などのパロディー?みたいなのが噺の中に出てくるので、知らないと面白みが分からないものもあるようです。

子どもの頃に漫才ブームがありました。漫才も話芸ですよね。でも、その中でも動きで笑わせるものもあったのですわ。「コマネチ」とか有名でしょう。

コントは会話に動きが付くので、場面の臨場感が出ますよね。セットや小道具を使うと、分かり易いでしょう。

落語は、扇子と手拭いを使って色々な小道具を生み出しています。演者にも聴者にもイメージ力を求めている感じでしょうか?

そういうところからすると、裸でお盆の芸は、見たままを笑おうとするものナノかしらん。

言葉を理解するのが難しくなってきたからさ、言葉はなるたけ使わない・・・文章化しない方が良いよね。単語やフレーズを使うことで分かり易くなります。

動きだけなら何でも良いわけではありませんよ。チャップリン無声映画なんか、長いからストーリーをたどらないといけない。短くないとね。

こうやって視ると、最近のお笑いは合理的配慮してる?

逆かな?視聴者側のイメージ力が低下しているのでしょうかね。それとも、分かり易い笑いに飛びついている内にイメージ力が低下しているのでしょうか?

どちらにしても、マスコミがこれを強化しているということになりませんか?

教育改革を掲げる政治家な多いですが、本気で子どもを育てるつもりなら、マスコミやゲームに手を付けないと・・・学校だけで変わるわけないじゃん。根本は社会だよねぇ。

歌丸さんの思いとは逆に、深く考えなくても笑えるようなモノが流行っていくのでしょう。もちろん笑いだけじゃなく、世の中どんどん便利になるので、器用じゃなくても大丈夫だし、色々なところで考えなくても済みますね。この便利さの筆頭はきっと視覚支援なんだろうと、思っているのですが・・・ん?結局何の話だ?