ちょっと凹凹

つらつら考えて・・・くよくよぼやきましょう

やっぱり金をかけないなぁ

ネットに小学校の教科担任制についてのニュースが流れていました。内容は、
文科省は、教科担任制の拡大のために22年度は加配定数を2000人増やすよう求めた。財務省は近隣にある中学校の教員などを活用すれば、必要な教員数は抑えられると主張。末松文科相と鈴木財務相が直接交渉し、950人増で折り合った。」

今年の小学校の数は19032だそうです。950人かぁ。

中学の活用も方法としては分かりますが、統計によると労働環境で一番ブラックなのは中学校ではありませんでしたか?活用できるゆとりがあるのでしょうかね?

学ぶには時間or金がかかるって言ってる人が古代からいるのになぁ。カリキュラムで学校の時間を散々奪っておきながら金はかけないって・・・

 

教科担任制の目的も書いてありました

1.  児童の学力向上

2.  複数の教員が関わることで多面的に児童を見ることができる

3. 「中1ギャップ」の緩和

4.  教員の働き方改革中でも、教員が得意な科目を教える、また教える教科を絞れれば専門性や指導力が上がり児童の学力向上が期待できることは大きい。

 

「2」は期待できそうに思いました。「学年で子どもを見よう」とかけ声をかけてもナカナカ難しいと自分は思ったので、学年内交換授業による教科担当制なら他クラスへの関わりが必ず出来て良いかなと。何度か経験した感想でもあります。

でも教科数が増えると短期間でも時数の調整が難しかったですし、通年で行うとなれば、さらに難しいんじゃないかしらん?

「3」の中1ギャップはどうなのでしょう?昔、中学の先生が6年生で授業をする交流がありました。その時の卒業生の1人は、教えに来た先生がいて安心感を感じた話をしてくれたことがありましたが、学校生活自体が大きく変わるので、馴れるまでに時間はかかったとも云ってました。効果はあるのでしょうけれど、的の真ん中ではない様に思います。

「1と4」は疑問がいっぱいです。教科担当制で学力が上がるなら、中学はどこでもそういう成果を出していると云うことなんですかね?卒業生の話や相談の内容からはそういう姿が見えてこないんだけどなぁ。小学校でも近隣では音楽専科をよく見ますが、じゃあ音楽力が高いのか?と云えばそんな感じはしないです。確かに音楽の専門性は高くて、指導支援が巧いなぁという方もいらっしゃいますが、少数な印象です。「がんばればできる」的指導で「音が苦」の授業をしていらっしゃる方を見ることの方が多いです。

教科の専門性が高いことと指導力は直接つながらないのは分かっていることじゃないのかなぁ?「名選手すなわち名監督ではない」って云うじゃないですか?自分が出来ることと教えることは違う力でしょう?

教科の専門性が高いことは、指導力を高めることに有利に働く場合もあるけど、逆の場合もあると思うのですわ。

「出来ない子を出来るようにする工夫」「理解できない子に理解させる工夫」が教材研究じゃん?教科専門性が高い人は「どうしてできないの?」と子どもに言って「練習すれば出来るよ」という流れになるパターンをよく見聞きします。「得意な教科」とも書いてあるので、余計危険ですね。

自らが不得手な教科ほど、出来ない子の気持ちや出来ないポイントが見えるモノでしょう。得意な教科では置いて行かれる子どもを増やすだけではないのかしらん?

これは断言しちゃいますが、教える教科を絞れば授業が巧くなるって事も無いですね。巧くなりたいって意識がなければ巧くならないですよ。意識の高い人にとっては試行回数が増えるので良い研鑽になると思います。

指導力、授業力、支援力みたいなモノがベースにある人は教科専門性の高さを巧く使えると思うのですが・・・

英語と算数と理科と体育で考えているらしいのですが、音楽は消えるのかな?消えずに5教科なら週10~15時間って所でしょうか?高学年なら週29時間?半分近くが専科になるんですね。

考えるに全科を受け持つ強味は時間割の自由さでした。事件が起きれば速対応ができ、柔軟に時間を使えました。個人的には時間割の自由があまり無い状態では学級経営をする自信がありません。