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凹凹MEMO

前向きでないかもしれませんが、後ろ向きになりすぎない程度の綴方・・・要するにぼやきです

マイノリティーに優しくない社会の個人的体験

 2011年7月にアナログ地上波テレビ放送が終了しました。終了する1年位前からアナログ終了の文字が画面に入っていました。邪魔だなぁと思っていました。

 震災が起きた頃には、災害情報で画面が小さくなっている上、「早く地デジにしなよっ!」という押しつけっぽい宣伝にもスペースを盗られ、視聴画面が二回り以上は小さかったです。

 地デジ化の宣伝は、アナログテレビ視聴者への嫌がらせにしか感じませんでしたね。ちゃんと料金を払っているのに、あの仕打ちは無いでしょう。終了する最後まで快適に視聴できるようにして欲しかったなぁ。すごく思いますよ、今でも。

 そういった不満から、地デジ化はせずに脱テレビを選択したわけです。別に困ることは無いですよ。タレントの顔は分かりませんが、生活に影響は無いです。

 ラジオ族はマイノリティーだそうです。テレビ視聴をしない人は周りにあまりいませんし、やはり全体から見ると少数派でしょう。

 

 以前、携帯電話の機種変更をしました。欲しい機能で機種を選んだところ、ワンセグが付いていました。テレビは視ないのでワンセグはいらないのですが、この機種が欲しいなぁ、と思ったわけです。

 NHKのサイトを見ると、このケースでも受信料を払わなきゃいけないって書いてあります。なので欲しい機能をあきらめて、別の機種を買いました。だって、視ないのに受信料を払うのは納得がいかないモノ。

  じゃあ、今の機種に納得しているのかといえば、不満はあるわけで・・・そもそも何で電話にテレビを付けるの?しかも、あんなちっこい画面でさ。高齢化社会って言っている割には高齢者向けに商品開発されていないわね。

 

 今度、車を買替えようと思っています。最近の車は便利ですね。カメラが付いていて、画面を見ながら車庫入れが安全にできるような機能があります。安全に金を掛けることは納得ですね。便利だし。

 でも、ここでもまたワンセグが付いてくるんです。便利な車を買うと、受信料の分、ランニングコストがかかるわけです。おかしくないですか?

 そもそも車でテレビが視られるのはおかしくないですか?よそ見運転を助長させていますよね?これが許されるなら、スマホ運転もアリじゃん。

 

 携帯電話も車も、ラジオ族向けのラインナップにはなっていないと思うわけです。ナントカっていう大臣が携帯からの受信料搾取を後押ししているようですが、テレビ族の方には影響ないことでも、ラジオ族にとっては、負担のかかることなんです。

 こうやって自分が少数派になって不利益を被ると社会の矛盾を感じます。経験しないと分からないというところで、自分の想像力の無さを表してしまっていますが・・・

う~ん、メリークリスマス

午前9時 明治学院大学白金校舎2号館

今日は東京でS.E.N.Sの試験を受けてきました。

ロマンスカーで朝食をとりながら、今までのレジュメを見て復習。こういう時は、やはりリッチにロマンスカーが良いです。

事件はその後です。いくつになっても地下鉄は分かりません。間違えてしまいまして、いつもと違う駅「白金高輪」に着いた私。地上に出て、ウロウロ。使い慣れないスマホで地図検索。自信は無いけど、こっちかなぁ・・・と歩き始めると声をかけられまして、これが同じ受験生なのですね。夏の研修で4班だった、10班だった、なんて話しながら、試験会場の明学大に着きました。

この時点で汗だらだらです。眼鏡が曇っちゃって、しばらく眼鏡は外していました。ほとんどぼやけてしまっています。でも受付はみんなが並んでいるので、一緒に並べば問題ないので、クリア。

教室に入ったのが丁度9時。全席指定です。ここで難しい問題が発生。椅子の背もたれと机との間が、丁度私の奥行きなのですもの。座ることは出来ましたが前傾姿勢がとれない!

まぁ、良い姿勢で書けばいいか、と思っていたのですが、試験前の名前を書く段階で、「やばい、見にくい!」

目と机は50cm程度の距離なのですが、一寸離れすぎだぁ。普段は眼鏡を外して、10cm位に近づけて書いているから、前傾姿勢がとれないのはマズいわっ!

それでも何とかやりましたが、もう目がショボショボ。それにしても、私は覚えることが苦手なんだなぁ。検査の名前とか人の名前とかなかなか出てこない。やっぱり試験は難しいなぁ。

試験自体はさておき(をゐをゐ?)、自分自身の支援について色々考えてしまいました。せっかく色々習っているのだから、自分にも活かしたいですよねぇ。

帰りは白金台から帰ってきました。ずっと「しろがね」だと思っていたのに、ふと駅の表示を見て「しろかね」だと気付きました。シロガネーゼっていうからさぁ・・・

スマイルクラブ

今期も始まりました。通級指導教室と地元特別支援学校の連携企画です。各学期末に開催して、今年で6年目だったと思います。単純に計算すると17回目になるのかしら?この間に形も変わってきましたが、私にとっては貴重なお勉強の機会となっています。

先月、3校の通級指導教室が、特別支援学校に集まり、教材研究しました。で、今回、初回を迎えたわけですが・・・

活動1 ねぇねぇ、なあに?

活動2 モヤッとボールクレーン

60分程度の活動時間でしたが、なかなか面白かったです。子どもたちも楽しそうに参加してました。本来なら同時進行で保護者のグループ懇談が行われるところですが、この日は参観になってしまいました。

子どもはいつもと違う環境の中で小集団活動を体験。保護者は同じような悩みを持つ他の保護者とともに、特別支援学校の教師とグループ相談。とても貴重な機会です。特に保護者のグループ相談に代わるモノは、ウチ単独ではできないモノです。

活動後には振り返りと次回の見通しのための話し合いをしています。研究会みたいで楽しいです。

↓活動2のセット

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レジリエンスという言葉で考えたこと

 

 ネットを見ると、回復力とか耐久力とか復元力とか折れない心とか色々書いてありますが、先日読んだ本の中にあった「心のしなやかさ」・・・確かそんな感じの言葉が気に入っています。気に入っているのにはっきり覚えていないところが特性です。

 それにしても支援教育の用語は片仮名が多いですね。なれるとAlphabetや片仮名を使っていますが、はじめの頃は苦労しました。全部日本語にすればいいのに、と極端なことを口走っていたわけです。そういう態度が軟化してきたのは、いくつかの外国の言葉が過不足無く日本語になっているわけではないと気づけたからでした。

 障害には種類がある、と20年くらい前に習っていたんですが、そこに問題意識は持てなかったのでした。最近ですね、いくつかの言葉をまとめて「障害」と訳したんだ、と気づいたのは。しかも、言葉自体に批判が出ていますよね。「障碍」と記載したりするのが有名です。

 そういうことなら仕方が無いです。うまく和語で伝わらないなら片仮名やAlphabetで表記してあげようじゃありませんか。という風に考えたわけです。

 レジリエンスかぁ。レジスタンスと似ているなぁ。しなやかな心でいいんじゃないかなぁ・・・。

君の手がささやいている

耳の聞こえない女性が主人公の物語です。私は視ると泣いてしまいます。テレビドラマの放映は、もう20年ほど前になるのですね。漫画も職場にあったので読みました。障害とかノーマライゼーションとかに興味が強くなってきた頃だったので、より惹かれたのかもしれません。どちらかといえば主人公ではなく、その他の登場人物の行動や心情の方が気になりました。

主人公の初出勤から物語はスタートします。耳が聞こえないことで起こるトラブルが色々・・・ドラマですからねぇ。聴覚障害者の心情もその周囲の人々の心情もよく伝わってくるドラマだと思います。現実はさらに厳しいのでしょうけれど。

取引先に書類を届ける途中で電車が止まってしまう場面があります。何が起きているか分からず、公衆電話もかけられないので連絡できずに困っていました。今だったら電車内でも電光掲示板で状況説明が行われて、連絡もメールですね。20世紀に比べて便利になって、できることも増えているなぁ、と思います。

 

眼鏡がなければ私は困ることがいっぱいです。でも眼鏡をかけている人に向かって障害者呼ばわりする人はいません。普及すれば特別視されないわけです。支援に役立つ色々なモノがドンドン発明されて普及すれば、障害はなくなるかもしれません。しかし・・・と考えるのですが、その様な世の中でも差別はなくならないのでは?意識とか心の成長が必要なんじゃないかしら?

今、インクルーシブな社会作りを行政は掲げていて、施設面を整えていますが、心の問題を考えているのかしら?ゆとりを無くした教育にそれができるのでしょうかね?

みんなでASD

「世の中は自閉的になってきているのではないでしょうか?」

この台詞を今の職場になってから、周囲にはよく話しているのですけれど、納得してくれる人とそうでない人が半々くらいでしょうか。

8年前に自閉症・情緒障害児支援級を担当しておりまして、開発されていく自立支援グッズについて知っている保護者から、色々紹介してもらっていました。当時iPad用に支援系アプリがすでに出ていて、「これは便利!」と思ったモノです。そういったグッズがたくさん出てくることで、自立しやすい世の中になるんじゃないかなぁ、と話していたのでした。現在のスマートホンの普及を見るだけで、そういう支援が身近になったように感じています。

今や電車に乗ってスマホを眺めている人のなんと多いことか。個々が必要なアプリを自由に使っている、と言う点で、それが支援でもそうでなくても、同じということです。見た目の違いは無いですよね。支援を受ける人にとっては、周囲を気にせずに支援アプリを使えます。

みんながスマホの画面を眺めています。ぶつかる直前まで夢中です。こんな状況では、生のコミュニケーションは発生しにくいでしょう。これはコミュニケーションが苦手な人には非常に生きやすい状況ではないでしょうか?

定型発達をしてきた人のことも考えてみましょう。

家庭ゲームが登場して以来、子どもの遊びから「コミュニケーション」の機会が大幅に奪われました。ゲームで育つイマジネーションもあるとは思いますが、偏りが生まれることは否めないでしょう。ゲームのセーブ機能とリセットボタンは「我慢」を奪っています。幼少期から大人になるまで、ずーっとゲームをしている人も多いのではないでしょうかね?その様に育って、果たしてコミュニケーションと我慢ができる大人になりますか?

こうして、元々特性は持たなくても、コミュニケーション力やイメージ力の未熟な人が増えていくわけです。すでにそんな世の中になっているように思いませんか?

そこが標準になると、自閉症の方々にとって生きやすい世の中となるように思うのですが・・・あと一息って感じですかね?

昔と違う子ども

「昔の子どもと違う。」

よく言われるフレーズです。この場合、子どもの行動面を言っていることが多いのですが、その行動も表面的なモノと隠れているモノがあると思うわけです。確かに表面的な部分では大きく変わったように見えますが、中の方・・・システムになるのかしら・・・は、変わらないように思います。

つまり、子どもそのものが変わったのではなく、変わったのは社会の方で、子どもからしてみると「ちゃんと育っている。」ということで。

集団行動が苦手、コミュニケーションが苦手、本が読めない、不器用等々、場所や人によって、色々ですが、だいたい「○○が弱くなってきている。」と言われることが多いです。でも、そう言われることを並べていくと、社会の変化と合致していることが多いことに気付きます。

紙工作職人の友人がよく語っていることですが、昔と今では生活の中での、手の動きが違うということです。特にひねる動きが消えているという指摘です。ノブを握って回すドアは少なくなりました。水道の蛇口もひねらなくても水が出るようになってきています。「経験が減れば、弱くなるのは当たり前でしょう。」と。

経験も含めて環境が人を育てるわけですから、時代ととも進化した社会の中では、それ相応の人が育つということですよね。

そこまで認めた上で、さて、この先ですが、昔と同じレベルを色々な場面で求めるのでしょうか?時代の流れに巻かれてあきらめるのでしょうか?一寸極端かしら?